津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・郡(勘右衛門)家

2009-07-27 12:43:30 | 歴史
 ここでご紹介する郡家は、細川家一門の郡家(幽齋兄・三渕藤英系)とは全く関係ない。
槙嶋云庵が娘壻堀大和守秀政(堀孫四郎)の子を養育し、忠興がこれに郡姓を与えたとされる。大和守秀政は、足利義昭臣上野清信の養嗣子となり、槙嶋昭光の娘を室としたが、後義昭の命により義父昭光の手で誅伐せられた。その真相は良く分からない。

永禄十二年の御所造営の現場で、惣奉行を勤める上野清信の手の者と、藤孝甥・荒川少兵衛輝宗の手の者との喧嘩がもとで二人の仲は急激に悪化する。藤孝は収拾に奔走するが、義昭は清信の讒言により「藤孝君を疎ミ給ひ、終にハ可被誅かとの趣にて、御館に御蟄居被成候、此時将軍家より信長江細川誅伐の命を下さる」と綿孝輯録は記す(巻二・p47)驚いた信長は諫言、義昭も「理に服し」たという。
■「義昭公清信を愛せられ候訳は、清信に女子有、甚美にして義昭公是を御寵愛、其上男子なけれはとて、一乗院におはしましける時よりの寵童堀孫八郎と云うものを清信が養子とせらる、後上野大和守秀政と云」(巻二・p48)
 
■「上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙嶋玄蕃頭両人ニ而討果申候 此儀備後国仙水山合戦之砌と言伝 と云々」(綿孝輯録巻二・p70)
 姉壻の槙嶋玄蕃頭(昭光)と、養嗣子の郡大和守(昭光女婿)の手により「征伐」されたと綿考輯録は記すが、これはどうやら疑わしい。

上野大和守・秀政(堀孫八郎)については次のようにある。
■「秀政重々の非義ありける故、義昭公御法体以後、槙嶋玄蕃昭光に仰て、泉水山にて誅せられ候、秀政は昭光か婿成ゆへ、秀政が子を育ミ置、後ニ忠興君に達して、御家人と被成候、其時の御意に、上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰、郡主馬名字をあたへ郡勘右衛門と名乗候なり」(綿考輯禄巻□・p□□)

義昭の死去にあたり葬儀を秀吉の命により奉行した昭光は、大坂の役後豊前に下って忠興に仕えた。

             足利義昭
                ∥
 +---上野清信---+--●
 |           |   堀孫四郎  
 +------●     +==大和守秀政
       ∥            ∥------郡五左衛門・・・・・・・・・・→細川家家臣・郡家
   槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)----●

 忠興が云庵(昭光)の孫に与えた「郡主馬」の郡姓は、細川忠興女・古保(長岡佐渡興長室)の生母(松の丸殿)の父・郡主馬宗保のことであり、由緒ある姓が与えられたことになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする