宮津市の盛林寺が所蔵する細川幽齋の子とされる、「菊童」の童子図である。
(宮津市のサイトから引用)
「絹本著色即安梅心童子像」と銘されたこの童子図は、同サイトの説明文には次のように有る。(抜粋)
【高麗縁の上畳にやや左を向いて坐す童子像で、頭髪を禿に剃り、赤い羽織を着け、右手に鈴を執り、左手は猫を表した手箱を抑えている。図上に、天正10年(1582)9月21日、英甫永雄の記した長文の賛があり、その識語によると、天正9年12月1日、細川藤孝は男児を得、菊童と名付けたが、翌10年8月21日急逝してしまい、盛林寺の趙室宗栢長老が、即安梅心の法名を授けた。童子の母(藤孝の妻)は子の夭逝を深く悲しみ、生前の姿を描かせ、永雄の賛詞を求めたのである。永雄は、若狭武田氏の一族で、母は細川藤孝の姉宮川であり、像主とは従兄に当たる。】
天正八年(1580)三月従四位下侍従に叙任さる(藤孝44歳)
七月信長より丹後国十二万石を与えらる、丹後宮津に居城
天正十年(1582)明智光秀織田信長を本能寺に弑す
藤孝この変を聞いて剃髪国を忠興に譲り幽斎玄旨と称す
私がここで取り上げたのは、家記にその存在が記されていない事に疑問をもったからである。正室麝香の子ではないのではないかとも考えたが、永雄の賛からするとどうもそうでもないらしい。兄弟姉妹全てが麝香の子であると家記は記しているのだが・・・
いつの日かこの童子図を拝見したいと願っている。
忠興 永禄六年(1563)十一月十三日生
興元 永禄九年(1566)
伊也 永禄十一年(1568)
幸隆 元亀二年(1571)
加賀 不明
千 天正七年(1589)
栗 不明
菊童 天正九年(1581)十二月一日生
考之 天正十二年(1584)
蓮丸 天正十五年(1587) (南禅寺聴松院に童子図がある)
仁伊 不明
(宮津市のサイトから引用)
「絹本著色即安梅心童子像」と銘されたこの童子図は、同サイトの説明文には次のように有る。(抜粋)
【高麗縁の上畳にやや左を向いて坐す童子像で、頭髪を禿に剃り、赤い羽織を着け、右手に鈴を執り、左手は猫を表した手箱を抑えている。図上に、天正10年(1582)9月21日、英甫永雄の記した長文の賛があり、その識語によると、天正9年12月1日、細川藤孝は男児を得、菊童と名付けたが、翌10年8月21日急逝してしまい、盛林寺の趙室宗栢長老が、即安梅心の法名を授けた。童子の母(藤孝の妻)は子の夭逝を深く悲しみ、生前の姿を描かせ、永雄の賛詞を求めたのである。永雄は、若狭武田氏の一族で、母は細川藤孝の姉宮川であり、像主とは従兄に当たる。】
天正八年(1580)三月従四位下侍従に叙任さる(藤孝44歳)
七月信長より丹後国十二万石を与えらる、丹後宮津に居城
天正十年(1582)明智光秀織田信長を本能寺に弑す
藤孝この変を聞いて剃髪国を忠興に譲り幽斎玄旨と称す
私がここで取り上げたのは、家記にその存在が記されていない事に疑問をもったからである。正室麝香の子ではないのではないかとも考えたが、永雄の賛からするとどうもそうでもないらしい。兄弟姉妹全てが麝香の子であると家記は記しているのだが・・・
いつの日かこの童子図を拝見したいと願っている。
忠興 永禄六年(1563)十一月十三日生
興元 永禄九年(1566)
伊也 永禄十一年(1568)
幸隆 元亀二年(1571)
加賀 不明
千 天正七年(1589)
栗 不明
菊童 天正九年(1581)十二月一日生
考之 天正十二年(1584)
蓮丸 天正十五年(1587) (南禅寺聴松院に童子図がある)
仁伊 不明