先にご紹介した「田中左兵衛封事」を上げた人である。有馬一揆の於いては一番鑓を上げたが、上使の認めるところとは成らず「幻の一番鑓」と称された。細川家はこれを手厚く遇して都合四千五百石とし、肥後藩初の城代職を勤めた。
「大日本史料・細川家史料」の人物索引は、次のように紹介する
【細川家臣。初め佐久間忠助と称す。長門長府に生る。のち豊前にて田中兵庫養子となり、田中左兵衛に改む。元和七年八月忠利中小性に召出さる。のち光尚部屋住の時、御附となる。寛永八年六月十一日忠利より知行百五十石拝領。有馬陣の功により十七年七月五百石加増、并陣刀・時服・羽織・金子等拝領。十八年八月廿三日光尚よりも有馬陣の功により五百石加増、小性頭を命ぜらる。正保元年正月十一日千石加増。慶安四年五月廿八日二千石加増。延宝四年正月隠居。】
又熊本県史料の人物索引は佐久間玄蕃の子だと紹介する。
これがどうもいただけない。玄蕃とは盛政の事だと思うが天正11年(1583)に、秀吉の手にかかり殺されている。元和七年(1621)といえば玄蕃の死から38年が経過している。
細川家には佐久間の一族の名前が幾人か確認される。それらを含めて改めて精査しなければと考えている。
「大日本史料・細川家史料」の人物索引は、次のように紹介する
【細川家臣。初め佐久間忠助と称す。長門長府に生る。のち豊前にて田中兵庫養子となり、田中左兵衛に改む。元和七年八月忠利中小性に召出さる。のち光尚部屋住の時、御附となる。寛永八年六月十一日忠利より知行百五十石拝領。有馬陣の功により十七年七月五百石加増、并陣刀・時服・羽織・金子等拝領。十八年八月廿三日光尚よりも有馬陣の功により五百石加増、小性頭を命ぜらる。正保元年正月十一日千石加増。慶安四年五月廿八日二千石加増。延宝四年正月隠居。】
又熊本県史料の人物索引は佐久間玄蕃の子だと紹介する。
これがどうもいただけない。玄蕃とは盛政の事だと思うが天正11年(1583)に、秀吉の手にかかり殺されている。元和七年(1621)といえば玄蕃の死から38年が経過している。
細川家には佐久間の一族の名前が幾人か確認される。それらを含めて改めて精査しなければと考えている。