津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

進化している侍帳

2009-07-31 15:24:16 | 徒然
 「侍帳にある人数」を時折訊ねられる事があるが・・・数えたことが無いので判らない。もともとは川口恭子先生の「細川家家臣略歴」を底本にしているから、その数をまとめてみると1,995家ほどになる。その他「家臣略歴」には記載がないが、「肥陽諸士鑑」に登場するお宅や、その他細川家家臣であったことが間違いないお宅(数代に渡っていること)などを独自に+している。(都合2,050家位か)また、個人の名前が相当数ある。1,000名位は在るのではないか。

 1,995家については先祖附が永青文庫に残されている。一時期全ての家の主だった部分を、コピーしようと思ったことがある。最近は図書館でコピーを活用される方が多く、長時間独り占めする事もままならず・・ある時期頓挫してしまった。それでも相当数の先祖附をコピーした。その他の家については、必要に迫られると図書館へ走り該当家の分をコピーしている。史料として保管しているが、置き場所に事欠く有様である。

 図書館で先祖附をぱらぱらしながら斜め読みをしているが、思いがけない記述に出くわしたりしてにんまりするのである。最近は目的をもってコピーに出かけるのではなく、先祖附をイロハ順に追いかけながら、にんまりニュースに有り付こうと宗旨替えをした。特段ご報告はしていないが、時折それが「侍帳」に反映されている。
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藤孝の兄弟(姉妹)

2009-07-31 13:58:29 | 歴史
 藤孝の兄・藤英、姉・宮川の母を、清原宣賢女(智慶院)とする系図がある。
これは明らかな間違いである。晴員は三渕家に養子として入り、晴常女・養源院を妻としている。これが藤英の生母であり、宮川や佐々木越中守に嫁した女性ももそうではないかと思われる。晴員が将軍の命により藤孝を身篭った智慶院を迎えた時、まだ養源院は存命しており、其の時の養源院の行動は定かではない。

藤孝の弟南禅寺長老・元冲や、大徳寺高桐院玉甫紹は智慶院が生母であろうか。
細川家の重臣三渕家の初代好重の生母は山名民部少輔一雲斎だという。
土御門久脩に嫁ぎ、二条泰重を生んだ末妹の生母は良く分らない。

 細川元有---+--元常=========藤孝---忠興
         |            ↑       
         +--晴員        | 
                       |   
         +--養源院      |
         |   ∥----------------------藤英---秋豪
 三渕晴常---+==晴員        |
              ∥---------藤孝
            智慶院

              ∥----------------------好重
            山名一雲斎・女
         
コメント (2)
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南禅寺

2009-07-31 09:16:29 | 歴史
 幽齋公歿後400年に関連し、しばらくの間幽齋公に関することを書いていきたいと思う。

細川家記によると、幽齋は三渕晴員の洛北の別墅で生まれたとある。天文三年四月廿二日のことであった。その場所が何所であったのか、答えは家老米田家の中山宗俊が書き残した「中山宗俊覚書」にあった。2009年05月29日のブログ【米田家臣中山宗俊覚書(一)】を参照されたい。

   幽齋様實ハ 公方義晴公の御子也此段舟橋家に詳也以前ハ
   船橋家を高倉と申候此時より舟橋に改りて今船橋と申候其
   比船橋環翠軒宗尤実名宣賢公と申候宣賢公息女後
   号智慶院殿 公方義晴公の宿直等被成懐妊なり然処に
   後奈良院より近衛尚通公の女を義昭公に被聘之不能辞叓
   して懐妊智慶院殿を三渕伊賀守晴員後妻に被下候也      
   晴員居宅は室町花の御御所近隣といへとも本宅へハ不入置は懐
   婦を東山の麓黒崎の別墅 藤孝公栄産の地之其後若狭少将木下勝俊入道長嘯遁世の地と成
   暫蟄居之由其後聴松院と云寺に成南禅寺塔中に今存せり幽齋様ハ義輝公ハ二歳の御舎兄なり 

   に被移置て晴員無逢見栄産あつて暫して被嫁なり

 つまり現在の南禅寺聴松院の地が三渕晴員の別墅(べっしょ=下屋敷、別荘)であったことが分る。そしてこの場所が、幽齋とは大変親しかったとされる木下勝俊(長嘯子)が、蟄居中の一時期を過ごしたと言うのも大変興味深い。

     南禅寺   http://www.nanzen.com/keidai_map.html
     木下勝俊  http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

 幽齋の没年は慶長十五年八月二十日、京三条車屋町の館で亡くなった。そして其の墓所は、同じく南禅寺の天龍庵に設けられた。分骨は豊前に建立された泰勝院に葬られた。(このことについては後に記することとする)

 私は昭和42年(1967)に結婚したが、新婚旅行は京都を旅した。当時ディユークエイセスの「京都大原三千院・・」という歌詞の歌が流行っていた。二番は「栂野高山寺」、三番は「嵐山大覚寺」であるがこれらを廻った。勿論南禅寺も訪ねたのだが、当時はまだ歴史には全く興味が無く、幽齋公のお墓があるなどとは露とも知らなかった。南禅寺前の店で名物の湯豆腐を食べたことくらいしか覚えていない。その後何度か機会があったのだが、いまだ訪ねることが出来ないで入る。 
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