7月15日のブログ「見つからぬ本・・そして雑感」で、渋谷美枝子著「細川ガラシャの娘・お長」について書いた。takaさんや、光千代さんからコメントを戴いたが、夫々苦労をされてお読みになっておられるようだ。私はといえば思いがけない事に、日頃いろんな事でご教示を戴いているPさんからご連絡いただき、お持ちになっている同書をお送りいただく旨のお申し出をいただいた。昨日手元に届き感激を新にしている。「日本の古本屋」でチェックしても手に入らない本が沢山ある。いつも気を着けて検索しているのだが、同書などはどうやら今後とも顔を出すようには思えない。こういう形で同書にお目に掛かれたことを大変嬉しく思っている。只々感謝である。
吉村文右衛門が、延享三年六月廿一日に上げた上書を、4~5回に分けてご紹介する。
時の藩主は宗孝、父・紀宣の死により遺領を相続した享保十七年は14歳であったが、この年に
享保の大飢饉が発生6,000余人の死者が出た。享保十九年(1734)には、大雨・洪水等による
被害三十六万石 、寛保二年(1742)には関東諸川改修手伝いを命ぜられている。
(支出127,230両 ) 延享三年(1746)には九州巡見使が熊本にも入ったが、文右衛門の上書
はこの年に上げられた。しかし宗孝は翌年、延享四年(1747)江戸城中にて板倉氏と誤認せら
れて刃傷に及ばれ、不幸な最後を迎えるのである(30歳)
そして、細川重賢の登場となるのだが、堀平太左衛門をして「宝暦の改革」に当るのである。
吉村文右衛門上書にも目が通されたことは当然のことであろう。
文右衛門の上書の最後には「誠惶誠恐 頓首頓首 死罪死罪」とある。
死を覚悟しての上書であったのだろう。
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吉村文右衛門上書 上妻文庫所収
君憂るときハ臣労し君辱しめ能るゝ時ハ臣死スと
申候へハ私式にハ御座候得共
御国不安ニ付寸志を記し 御下國を奉待候 御勝手
向次第ニ被御遊御差支候處より御國中四民共ニ困窮ニ及申候
就中農民のいたミと申候ハ不怪事ニ御座候 如是ニ御座候得共
上之御事を茂御國中之諸人色々誹謗し奉り或ハ愚痴
無知之輩ニ至り申候而ハ御情なきと奉怨とも相聞申候 旅人も
多く御國を出入仕事ニ御座候へハ是一國之唱宣し加らさる迄ニ
無御座 他國之聞へも不宣と奉損候へハ不省恐多事愚意を申上候
然るに世間に申候ヲ承り申候へハ ケ様の時節忠義たて申出候ハ
甚タ愚なる事ニ御座候由 其故ハ迚も用らるゝ事ニ而も無御座
道の行ハ連さるニ當つて忠言を申候ハ譬ハ大廈の倒
連と仕候を一木を以て支へんと仕るに等としく是ミつから
身の禍を招クのミ更ニ益なき事に御座候 昔上表して
憲宗の怒りに遭ひ或ハ懐王を諌めて子蘭か讒を受し
たくひ皆自招自取所の禍ひなりと申候由尤に相聞申候
然共民凍餒の苦しミ御座候而
君まさに他邦の嘲を受たまふへきを見ても口をつくみて
志らしめ奉らさるハ臣の道と可申哉古来金言耳に逆ふ
習ひに御座候得共
御機嫌を損シ申儀可有御座哉と奉存候得共ケ様に申上候
うへハ本より身を省ミ申所ハ少しも無御座候只々
御國の不安と他國の申さん所と千万気之毒ニ奉存候故 私式
不似合申上候事御座候得共左ニ相記シ乍恐奉言上候
奉言上條々目録
一、御國難儀の大概
一、あらかき質部屋
一、夫遣
一、聚斂
一、御百姓の害
一、軽キ御役儀
一、片落万遍
一、人才
時の藩主は宗孝、父・紀宣の死により遺領を相続した享保十七年は14歳であったが、この年に
享保の大飢饉が発生6,000余人の死者が出た。享保十九年(1734)には、大雨・洪水等による
被害三十六万石 、寛保二年(1742)には関東諸川改修手伝いを命ぜられている。
(支出127,230両 ) 延享三年(1746)には九州巡見使が熊本にも入ったが、文右衛門の上書
はこの年に上げられた。しかし宗孝は翌年、延享四年(1747)江戸城中にて板倉氏と誤認せら
れて刃傷に及ばれ、不幸な最後を迎えるのである(30歳)
そして、細川重賢の登場となるのだが、堀平太左衛門をして「宝暦の改革」に当るのである。
吉村文右衛門上書にも目が通されたことは当然のことであろう。
文右衛門の上書の最後には「誠惶誠恐 頓首頓首 死罪死罪」とある。
死を覚悟しての上書であったのだろう。
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吉村文右衛門上書 上妻文庫所収
君憂るときハ臣労し君辱しめ能るゝ時ハ臣死スと
申候へハ私式にハ御座候得共
御国不安ニ付寸志を記し 御下國を奉待候 御勝手
向次第ニ被御遊御差支候處より御國中四民共ニ困窮ニ及申候
就中農民のいたミと申候ハ不怪事ニ御座候 如是ニ御座候得共
上之御事を茂御國中之諸人色々誹謗し奉り或ハ愚痴
無知之輩ニ至り申候而ハ御情なきと奉怨とも相聞申候 旅人も
多く御國を出入仕事ニ御座候へハ是一國之唱宣し加らさる迄ニ
無御座 他國之聞へも不宣と奉損候へハ不省恐多事愚意を申上候
然るに世間に申候ヲ承り申候へハ ケ様の時節忠義たて申出候ハ
甚タ愚なる事ニ御座候由 其故ハ迚も用らるゝ事ニ而も無御座
道の行ハ連さるニ當つて忠言を申候ハ譬ハ大廈の倒
連と仕候を一木を以て支へんと仕るに等としく是ミつから
身の禍を招クのミ更ニ益なき事に御座候 昔上表して
憲宗の怒りに遭ひ或ハ懐王を諌めて子蘭か讒を受し
たくひ皆自招自取所の禍ひなりと申候由尤に相聞申候
然共民凍餒の苦しミ御座候而
君まさに他邦の嘲を受たまふへきを見ても口をつくみて
志らしめ奉らさるハ臣の道と可申哉古来金言耳に逆ふ
習ひに御座候得共
御機嫌を損シ申儀可有御座哉と奉存候得共ケ様に申上候
うへハ本より身を省ミ申所ハ少しも無御座候只々
御國の不安と他國の申さん所と千万気之毒ニ奉存候故 私式
不似合申上候事御座候得共左ニ相記シ乍恐奉言上候
奉言上條々目録
一、御國難儀の大概
一、あらかき質部屋
一、夫遣
一、聚斂
一、御百姓の害
一、軽キ御役儀
一、片落万遍
一、人才
■ 魚住市正(昌永)
若州逸見一族にて、家老相勤候、逸見駿河守没落已後、於青龍寺被召出、御知行
百石被下候、其砌丹後御拝領、国人御取鎮之御人数不足之御様子ニ付、逸見の家
来残居候者共相催し、罷越相勤候処、御懇之御意被成下候、高麗陳其外所々御陳
之御供仕、相働、追々御加増三百石被下、御鉄砲十五挺御弓十五張の頭被仰付候、
豊後木付ニ被差越、於彼地働申候、豊前御拝領之節、木付并数度戦功之為御褒美、
御知行千七百石御加増、都合二千石ニ而御郡代、御留守支配相勤、病死
(綿考輯録・巻五 魚住加助【田辺城籠城】項)
● 魚住嘉助(市正嫡男 正重) 【田辺城籠城】
(1)七百石 馬廻組(三渕) (於豊前小倉御侍帳)
(2)御馬廻衆・添頭 七百石 (肥後御入国宿割帳)
加助は市正嫡男也、幽齋君御側ニ被召仕十七歳の時傍輩に意趣有之、伏見京橋ニ
出合討果、直に若狭江立退候、当時丹波國に身を隠し居候処、田辺御籠城之段きヽ
付、白昼に敵陳を凌き、御城に籠り走廻り働候段、篠山五左衛門申上、咎被成御免、
御知行七百石、御使番ふれなかしの触元被仰付、并七本はれん御指物拝領、小倉
にて病死、其子孫四郎(後改加助)幼年ニ付、先御知行三百石被下、十五歳ニ成候
節、七百石被下候、有馬御陳之節、弟孫四郎と一同ニ御供、御帰陳之上果候、御軍
法を背候間、跡式不被仰付候、弟孫四郎江三百石被為拝領候処、様子御座候て、御
暇被下候、 (綿考輯録・巻五 魚住加助【田辺城籠城】項)
消息:寛永元年八月二日「日帳」 (福岡県史近世史料編・細川小倉藩第一 p2)
沢村大学殿登城ニ手、魚住加助相果申ニ付、書をき仕、御奉行衆へあて
申候を、大学殿持参被成候事、加助申置候様子、段々御奉行衆へ物語ニ
候事、殿様へ上ケ申道具、七匁玉鉄炮壱丁・くら壱口上ケ可申由ニ候事
嫡子*加助等消息:寛永十五年四月廿五日付「覚」
(熊本縣史料近世編第二 p408)
四月廿五日ニ病死
七百石 魚住加助
同人子歳三ツ 久八
同人弟歳拾九 孫四郎
同人歳廿 妹壱人
後家
御書入 おとヽニ別ニ知行遣候ニ加介事不奉公者にて候つれとも
おや・おうしニたいし遣候つる跡はたて申ましく候
● 魚住傳左衛門(二男)
於豊前三百石拝領、追々御加増千五百石、有馬御陳之節は中風相煩候へとも、切
支丹三人御預被成候、三斎様御附中津二相詰候衆 丹後 千七百石壱斗四升五合
(於豊前小倉御侍帳)
*万五郎
忠利君御側ニ被召仕、三百石被下、有馬にも御供仕候、忠興君御成節、御機嫌を
損し、伝左衛門跡式不被仰付候
(1)御詰衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(3)御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
室・尾藤家初代金左衛門女 (尾藤家系図)
*傳之進 万五郎跡式拝領
御詰衆・松野亀右衛門組組脇 野津原御郡奉行 三百石
夜半の熊本は凄い雷雨未明には雨も上がったが、空は一面厚い雲に覆われて絶望的状況。処が8時前一瞬太陽が顔を出し、多少の期待を窺わせた。熊本の食の開始は9時37分、最大の食(92.8%)は10時57分なのだが、10時ころからうっすらと太陽が顔を出し、少し食が進んだ太陽を確認。それから奇跡的に雲が切れて期待が深まったが、最大の食は確認できずに残念・・・。しかし老いの身をわすれさせるワクワクの時間だった。
前回(1963)の日食の際は、木漏れ日の影がすべて食が進んだ太陽の形であることを見て、鳥肌が立ったことを思い出した。次ぎは20数年後・・・これは一寸難しい。
お昼からは嘘のような良い天気になりました・・・残念
前回(1963)の日食の際は、木漏れ日の影がすべて食が進んだ太陽の形であることを見て、鳥肌が立ったことを思い出した。次ぎは20数年後・・・これは一寸難しい。
お昼からは嘘のような良い天気になりました・・・残念