津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

三澤純氏の「お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介」

2010-11-27 10:13:23 | 歴史

 熊本大学の三澤純氏の論考だがこれが大変面白い。CiNiiで紹介されているのでぜひ御覧いただきたい。説明によるとその概要は以下の通りである。
【1877年に起こった西南戦争に際して、旧熊本藩知事細川護久の三人の娘たちが、細川家の家令や女中たちとともに熊本県内各地を転々とした、疎開生活中の記録である「御子様方所々御立退中日記」を解題を付して紹介したもの】
                http://hdl.handle.net/2298/3270

 幼い姫君お三方が戦火を逃れて、熊本のあちこちを逃げ惑われて居られる。
その出立は熊本城が炎上し、城下町が焼き払われる明治10年2月19日の朝である。三澤氏はこれらのことが細川御内家に事前に連絡されていたろうと推測される。お三方が熊本城下を縦断して、立田邸に到着されたのが10時過ぎだとされるが、直後その城下には火が放たれている。天守が炎上するのはこの直後である。官軍が自焼させたのであろう。

幼いお子達の恐怖の数ヶ月間の記録だが、まさに「事実は小説よりも奇なり」である。
この前年の神風連の乱の時は、お三方は兄の護全公とともに宇土細川家に避難されたと家記は記している。幼い皆様のご苦労の時代である。

コメント (2)
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牧崎窯はどこ・・・

2010-11-27 09:36:14 | 熊本

 八代市立博物館・未来の森ミュージアムの福原透先生から、日本陶磁器協会発行の「陶説」及び、デ アルテ・第24号別刷の「鄙の夢--天草郡高浜村庄屋上田家と磁器焼成」をご恵贈たまわった。「陶説」には先生の論考「細川忠利のお庭焼、牧崎窯について」が掲載されている。
 じつはこの論考については随分以前にコピーを頂戴したことがあった。爺の余計ごとで、ここに登場する陶工・弥大夫の消息を「真源院様御代御侍帳」で発見、これをご連絡したことがある。これが先生の論考の中にどう影響したのか、前にいただいたコピーと見比べなければならないが、当方の名前までご紹介いただき穴にも入りたい心地である。

 私は十数年前まで、この牧崎窯があったとされる所の近所に住んでいた。牧崎地区がどの範囲なのか詳しくは承知しないのだが、さてどこだろうと首をひねらずにはいられない。昔の本妙寺の参道は現在とは随分状況が違う。絵図などを見ると、現在の参道にある大門下あたりは随分様変わりしているように思えて、ひょっとしたらこのあたりに登り窯が?、等と考えてしまう。いつかゆっくり牧崎地区を散策してみたいと思っている。

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