津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家のお国入り

2010-11-22 20:42:33 | 歴史
 細川家のお国替えは不思議と寒い時期である。
 忠興の豊前入りは慶長5年の12月26日(新暦1月12日)だとされる。12月8日に丹後を出立したとされるが、この年は随分寒かったらしく雪が深く馬が凍えて難儀したと、加藤政右衛門家(金山下坊子孫)の家記に記されている。「御人数及難儀申候ニ付、金山下坊宅へ一日一夜御逗留、拾八疋之御馬火をたきあたヽめ申候、其上御通行之道筋三里之間をかきのけ、無御支御旅行遊され候・・・」とある。主だった人達や女性達など十八人が馬に乗り、その他の人達は18日の間の数日を雪中行軍した事になる。

 一方忠利の熊本入りも寛永9年の11月9日、(新暦では12月20日)お寒い中ご苦労様といわなければならない。
10月4日肥後拝領の御沙汰を得た忠利は、次々に国許へ書を発する傍ら、御礼の為に多忙な日々を過ごしている。そして10月15日に江戸御発駕、27日大坂着、11月11日小倉に帰っている。その間にも忠利の早飛脚による指示がもたらされ、長岡佐渡守・有吉頼母佐・長岡監物らの適切な処置により、肥後入りの準備が万端調えられるとともに、「飛ぶ鳥跡を濁さず」の始末が成されていく。御供の者が決まり、警護の鉄炮者・御弓者なども決定、道筋の宿奉行や万奉行などが定められる。忠利の帰着とともにその事が肥後在番に届けられる。17日には沢村大学介が先遣として肥後へ向かう。20日には上使板倉内膳、仙石大和守が小倉入り、23日には肥後へ向けて出立して行く。27日、小笠原備前・志水伯耆・清田石見・三渕内匠・氏家志摩・道家帯刀・藪図書・藪市正・加々山主馬・国達道倫らが御郡奉行に任ぜられる。11月5日長岡監物小倉差立、7日に熊本入りし在番の石川主殿頭に被謁して「御要害之錠鍵」の引渡しを受け、大御番所をはじめ諸所の番所を警固した。6日いよいよ忠利一行は小倉を出立、行程四十里を四日かけ、途中の黒田・有馬・立花の領内を饗応・御音信をうけながら通過、9日朝「夜ふかく山鹿御立」熊本に入った。長岡監物宛の有吉頼母等の書状によると「当地御城唯今九日之辰ノ上刻ニ被成御渡、無事ニ請取申候」とある。10日忠利が息光利に宛てた書状の中に「事外ひろき国にて候、城も江戸之外これほとひろき見不申候・・以下略」と、その感慨を申し送っている。家臣たちも順次熊本入りするが、「御入国宿割帳」に詳しい。日付は11月28日とされているが、家族を含めると万に近い人々の移動であり、一挙に肥後入りしたものでない事は確かだろうし、この日付けは記録上のものであろう。慌しい一年の終わりを迎えようとしている。
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のぞいちゃ駄目

2010-11-22 17:44:10 | 徒然

 妙解寺の忠利公ご夫妻・光尚公の三霊廟は方形造りで、唐破風造りの向拝をもつ立派な建造物である。先のお掃除の際気が付いたのだが、忠利公・光尚公の廟所は建物の足元が6~7寸開いている。そこから墓石の状況が見て取れる。処が忠利公夫人・保寿院さまの廟所は足元の部分が完全に隠されていて、中を伺うことが出来ない。
さすが女性のお墓・・?と話したことだが、本当の意味はどうなのだろうか。
どなたかご承知であれば、ご教示いただきたいものである。

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