津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

青龍寺という呼び方

2010-11-01 20:15:57 | 歴史
 永青文庫の命名の由来は、永源庵の「永」と、青龍寺の「青」をとって名づけられたとされる。ごく普通に青龍寺と呼ばれているが、本来は勝龍寺から来ているのはご承知の通りである。故に「しょうりゅうじ」と読まなければならない。
勝龍寺を青龍寺としたのは細川氏であることは間違いないが、それが「何時の時期に何ゆえ?」となると、はたと頭をひねってしまう。

 手元の資料を眺めているが、100%確実な回答を得ることが出来ないでいる。

江戸時代中期に書かれた、山城国西岡御領地之図には、「西岡三千貫之地、細川元有公従公方義澄公御加増御拝領」と書き込みがなされているが、中世資料にはその事実は確認されていないという。藤孝(幽齋)が信長から「城州之内限桂川西地」の支配権を認められたのは、元亀四年七月十日である。上記「山城国西岡御領地之図」がそれであり勝龍寺城の書き込みがある。平成17年八代未来の森ミュージアムの「大名細川家展」ならびに、現在熊本県立美術館で行われている「細川幽齋展」に同じ絵図が出品されているが、図録の解説によると、前者は「勝龍寺」とちゃんと説明しているが、後者は「青龍寺」とありこの解説には首を傾げざるを得ない。

2010/3/14にご紹介した細川家譜--細川藤孝譜 ・・ 7には次のようにある。
【藤孝桂川以西を領し、長岡と姓を改む】
十日藤孝へ信長ヨリ城州本領ノ傍桂川ヲ限リ西北一職加禄アルヘキトノ證書ヲ贈ラル 
同月藤孝加増地ニ打入ル 
 
「兼見卿記」を見ると元亀二年(1571)二月九日の条に「向細兵、皈(帰)城勝龍寺也、直ニ罷下、於路次云、西庄福知所ニ滞留也、罷向對談了、入夜歸宅了」とある。入城して住まう事は出来ないものの、青龍寺の地に帰った事が分かる。「綿孝輯録」は米田求政に縄張りさせ青龍寺城の大改修に着手した事を記している。
 
 天正八年(1580)七月信長は藤孝と惟任光秀を安土に召出し、丹後を藤孝に丹波を光秀に賜る旨の仰出がある。松井康之を青龍寺に残し、八月二日(十二日とも)藤孝・忠興父子は丹後に入国する。そして天正九年三月廿五日「矢部善七郎、猪子兵助青竜寺に番手として来られ」、松井康之は城を渡して丹後に罷越したと、綿孝輯録(巻四p138)は記す。
藤孝の勝龍寺在城はおおよそ九年である。

綿考輯録の編纂が成されるのは一世紀も後のことであり、ここで表記される「青龍寺」は信頼性に欠ける。
古い文書の上で一番古い「青龍寺」という呼称はいつのころ出たのか、なぜそうしたのか・・・興味が尽きないところである。
コメント (2)
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駄作なる日々

2010-11-01 08:00:24 | 徒然
 つれづれにふと思い立っては俳句をひねっていますが、見事に進歩の跡が見えません。
図々しさは年齢に比例しているのでしょうか。相変わらずの駄作「秋の巻」をご披露します。
そろそろ立冬次の駄句をひねるために、冬の歳時記を引っ張り出したりしています。

  
         いかがなるお人の家居ぞ萩たわゝ

         石段を走る落ち葉や四つ御廟

         
老いの背を木漏れ日におく小春かな

         
ジェット機の航跡空を袈裟に切り

         寒蘭の二三鉢あり忌中札


         絵手紙のざくろの色も馳走かな

         
山の背は西方浄土かあかね満つ

         
やや寒に歩み早めて家路かな

        
 血のごとく咲くまんじゅしゃげ田原坂

         
戦びとの倒れし如くまんじゅしゃげ

        霜月の朔日の朝の大くさめ
コメント (1)
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