津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

久しぶりの図書館浴

2010-11-15 16:35:33 | 徒然

 昨日のことである。ある調べごとと、コピーをすべく久しぶりに図書館に出向く。
細川藩士・立石正重が書き残した、「長元記」をコピーするつもりでいたら、別に同氏の「長曽我部元親記」なるものもある。よくよく見比べると長曽我部に係る記述であることに間違いないが・・・まさしく別物である。まずは「長曽我部元親記」約80枚をコピーする。68爺は途中ですっかり疲れてしまい「長元記」のコピーは後日にすることとして終了。

 丁度「平成22年度図書館貴重資料展 『織豊時代の武将』~清正・幽齋~が行われていたので、しばし展観、資料を頂戴してかえる。

 帰ってよくよく見ると「加藤清正関係系図」が掲載されている。安藤秀男氏の著作からの引用である。・・・・これはまずい・・・・ 地元・福田正秀氏の研究によって、今まで伝えられてきた清正の家族関係は相当の間違いがあることが証明されてきた。それにもかかわらず、古い資料からの引用は当を得たものではない。図書館が提供する資料だけに、きめ細かな配慮が必要であろう。ちょっとがっかりの図書館浴と相成った。

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池上本門寺の「近世大名家墓所の調査」報告書

2010-11-15 08:47:51 | 歴史

 池上本門寺奉賛会が発行した、坂詰秀一編 2002 『近世大名家墓所の調査 - 圓光院殿日仙榮壽大姉墓所、清高院殿妙秀日圓大姉墓所、高正院殿妙泉日流大姉墓所』を、熊本県立図書館で見ることが出来た。こういった類のお役所の報告書に比べると、大変立派な装丁で驚いてしまった。

 細川藩関係は、綱利の生母清高院と、宣紀の生母高正院の墓所が詳細に亘り発掘調査されている。見開きに近いところに掲載された、清高院の膝をわずかに屈曲させて横たわるカラーの遺骨の写真が強烈だった。綱利の生母として栄華を極めたのであろうが、こういう現実を目の辺りにするとなんとも言いがたい気持ちにさせられる。

      光尚
       ∥----------------+--綱利=================宣紀
       吉(清高院)      |
                     +--利重
                         ∥-------------+--利昌
                         弁(高正院)    |
                                     +--利武(宣紀)

 驚かされるのはそのお墓の見事さである。二人は共に藩主の生母とはいえ側室である。
最近泰勝寺や妙解寺を度々訪れ、藩主のお墓に接してきたが、清高院のお墓は藩主以上の作りかもしれない。当然の事ながら綱利が作らせたものであろうが、母子を通じての派手好みが伺える。顔をしかめた家臣も多かったのではないかと、ひそかに推察している。 所詮は側室であったという清高院の思いや、派手な生活を諌められた無念さや、又そんな母を思う綱利の想いが凝縮されているように感じられた。
この手の本はなかなか目を通される機会も少ないだろうが、どうぞ御覧になられては如何だろうか。
                        

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立(流)鼓紋いろいろ

2010-11-15 08:08:50 | 歴史

                            丸に立鼓紋

我が家の紋は紋帳にはない。隅入り角に立鼓紋である。
細川家家臣の家紋を眺めていたら、類似の家紋が二三あることに気づいた。

  ・富田弥右衛門元英家(後・古橋家)   黒丸・白抜き立鼓
  ・小川元淳家                  丸に立鼓
  ・横山藤左衛門を祖とする三家         同上
  ・続重政の分流二家               同上
  ・内藤庄大夫家                  同上
  ・兼坂藤右衛門定輝家            角に立鼓

我が家の紋は兼坂家のものに近い。我がご先祖は兼坂組にお世話になったことがある。
家紋は関係ないと思うのだけれど・・・

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