津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本弁講座「ええくらい」

2010-11-29 21:23:41 | 熊本

 どうしてこんな言葉になったのか不思議で仕方ありません。
過日来熊された東京のお二人ともお話したのですが、熊本弁の成り立ちを何方か研究してくださらないかと真剣に思っています。

 「このええくらいが」などと使いますが、そろそろお判りですか・・?

 そうこの季節巷でよくみられるように成りました。
男ばかりじゃありませんよ。若い女の子がコンビニの前でひっくり返ったりしているのが見受けられますねー。

 そう「酔っ払い」のことです。
「こぎゃんええくろうて、のさん」と奥方から軽蔑の眼で見られないように、年末お酒を飲む機会が多い方はお気をつけ下さい。

 「のさん」が又難問です。一言で当てはまる言葉が見つかりませんが、「あきれ果てる」「困り果てる」などの意ですが、あるサイトには「Not good」とありました。

 「こぎゃん」は「こんなに・・」です。

 説明すっとに こぎゃんこつ(事)になって のさん・・・・・・・・・・・・・(失礼しました)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有吉家文書「年中行事抜粋」(十ニ)御格帳并考蹟志らへ等之内心覚之大旨左之通

2010-11-29 06:14:14 | 有吉家文書

一、免職之節御賞席ハ十年以上
   持懸御役席ハ二十年已上右同御賞
   禄其儘被下置儀茂右同断之事
一、右同御役附之年数を以僉議ニ相成
   家督より之年数ハ取用ニ不相成候事
一、禄三千石以上者此着座ニ持席有之
   弐千石以上者御番方ニは不被落
   大組附ニ被召加候事
一、慶安二年迄ハ旧知ニて同三年よりハ
   新知と宝暦六年被定候事
一、新禄ハ高之大小ニ寄五拾石又者
   百石其上茂被減候、扨又新古受居候ハ
   新知より被減候御定之事
一、右同御奉公及五十年候者ハ是ハ御役之年数ニ不
   拘惣年数取用ニ相成其子御家督之節無相違
   相続被仰付、旧知之人ハ拝領物被
   仰付見合ニ候事
     但御番方等舊知之人御番無
     懈怠四十年ニ及候輩ハ以其訳
     御服被下置候見合有之候事
一、右同御役三十年以上ニ及候輩者
   跡式無相違相続被仰付繁劇
   之御役ハ右年数ニ不至共無相違
   相続被仰付候事
一、御擬作は家督之節父之勤
   五十年子之勤二十年ニ及候得者
    無相違相続被仰付候、又父之勤六十
  年ニ而者右同断
     但父四十五年子二十五年ニては
     難成候事
一、藝数ニより無相違被下置候儀左之
   通
     目録 四
     目録 二
     免許 一
     免許 弐
   右之通ニ候得共、稀ニハ一藝ニ而無
   相違被下置候儀茂有之候事
一、文学之方ハ目当無之候処、近年者
   寛政二年杉浦角助家督之節高本
   敬蔵より達之趣有之、槍術目録一ツニて無
   相違相続被仰付、其節申渡諸事
   心懸宜候付ケ様ニてと有之候、其已前右様
   之儀無之、角助節踏出カト相見候也
   家督前助教より何某学問ハ免許ニ
   当り又目録ニ当り候と達出候、尤政府より
   一々問合ハ無之候併時宜ニも可応事
一、御切米ハ御取立之面々江被下手取茂
   月刻ニて候事
     軽輩之内席禄ニ困而御奉行より
     奉伺候稜左之通
   歩御使番より歩御小姓列以上伺之
     但
     御在府之節急成儀ハ不及奉
     伺上而達
     尊聴
一、諸役人段御切米拾石三人扶持之内
   被減候者并御給扶持被差救候もの
   伺之
一、御切米拾石三人扶持被下置候者御咎
   に付而役儀被差除又者病気或者
   役儀立不申御免之節勤之年
   数ニ依而御切米之内被減候儀且又歩
   御使番以下段格御給扶持持懸ニ而
   役替退役被仰付又ハ拝領物或ハ
   閉門逼塞遠慮等被仰付候儀者
   達 尊聴ニ不及

参考:高本敬蔵
    慶順(養子 実・原田宗昆六男 慶蔵・敬蔵)  
             御備頭組御留守居大頭組 御儒者・助教 二百石
    高本紫溟 名は順字は子友、慶蔵と称し後敬蔵と改む。紫溟は其号。
    細川侯に仕へ食禄二百石。世々医を業とす。其先は
朝鮮王の庶族李姓
    
なり、幼にして才名あり、詩を善くす。夙に世を厭ふ心ありて、阿蘇山中に
    茅屋を結びて住し、萬松廬と云う。書を読む数年、学大に進む、明和年中
    藩公召して時習館訓導となす。是に於て決然心を翻し、出でて治教を稗
    補せんと思ひ、薮孤山を助けて教育に従事し、遂に教授職に進み、学政
    
を管する事数十年、子弟を育すること甚だ多し。博学多識既に伊洛の学
    に深く、兼て国歌国文を善くす。嘗て長瀬真幸の江戸に抵役するや国文
    一編を贈る。真幸京都に留る数旬、其文図らずも、上皇の叡覧に入る。
    玉音あり、「図らざりき田舎此珍あらんとは」と、紫溟感拝して自ら田舎珍
    夫と号し印章にせり。嘗て芳野に遊び転じて松坂の本居宣長を訪ぬ。(一部略)
    氏真幸を勧めて、宣長に従ひて国典を講究せしむ。業成りて時習館一局
    に
於て教授せしむ。是より始めて肥後に国典の学興り、歌道に深き人々
    出でたるは全く紫溟の功績なり。(一部略)
    文化十年十二月廿六日没す。享年七十八、本妙寺山中に葬る。
    大正五年十二月正五位を追贈せらる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする