津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「小(大)角豆=ささげ」のこと

2010-11-03 18:03:13 | 歴史
                    TY様のお宅の「ささげ」のグリーンカーテン 

今年の1/23のブログで「小角豆」のことを書いた。
実はその日に催された「史談会」で勉強した「慶安之御觸書」に出てきたのだが、これの読みや何物かがわからぬままにいた。帰宅して少々コメントをしたのだが、TYさんが写真をお送りくださったので、翌日追記の形で写真を掲載した。

 実はTYさんは阿蘇の惣庄屋を勤められたお宅のご子孫で、沢山の史料をお持ちでその目録などを頂戴している。偶然ながらお住まいが近くいつかお目にかかりたいと思っていたら、今日「小角豆」をもってお出でいただいた。ご自宅の畑で栽培されているとは聞いていたが、わざわざお持ちいただき大変恐縮した次第である。25~6センチの大きなさやに、びっしりと「小角豆」がつまっている。一週間もすればさやがはじけるのだそうだ。お正月にぜんざいなどにしていただこうかと、妻と話している。ただただ感謝である。
そして今年は、ささげを日よけのグリーンカーテンにされたそうで、写真をいただいた。
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 ちなみに「慶安之御觸書」は、次のようなけしからぬことを書いている。

一、百姓ハ分別もなく末の考もなき者ニ候故、秋ニなり候へ者、米雑穀をむざと妻子ニも喰せ候、いつも
   正月、二月、三月時分の心を持食物を大切ニ仕るへく候ニ付、雑穀専一ニ候間、麦・粟・稗・菜・大
   根、其の外 何にても雑穀を作り、米を多く喰つぶし候ハぬやうニ仕へく候、飢饉の時を存出し候ヘハ、
   大豆の葉、小豆の葉、小角豆の葉、芋の落葉など、 むざと捨候儀は勿体なきことニ候。
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司馬遼太郎著「春灯雑記」とセピア色の記事

2010-11-03 09:40:12 | 歴史
 司馬遼太郎に「春灯雑記」という著作がある。友人に「読め」と勧めたところ、日本の古本屋で手に入れて、「読んだぞ~」とメールが来た。

 実は過日行われた、「細川幽齋没後400年」シンポジウムで、細川佳代子夫人が新婚まもないころ(?)、来熊した司馬遼太郎氏を、細川護貞さまとともに接待に当たられ際のお話をユーモアたっぷりにお話になった。その折の護貞さまとのふれ合いがが、「護貞氏の話-肥後細川家のことども」として、多くのページを割いて記されているのである。
本は1991年初版の本であるが、文中に護貞さまを「六十前後であられた」と記されているので、佳代子夫人のお話の時期で間違いないのではないか・・。司馬氏によると護貞さまは、終始茶道の亭主のごとく振舞われ、八代の松井家までの道案内まで買って出られたという。

実は私のスクラップ帳にセピア色に変色した昭和48年(1973)11月の、熊本日日新聞の切抜きが貼り付けられている。司馬遼太郎氏の文化講演についての記事だが、護貞さまとの面談はこの前後に行われたのであろう。

その記事の内容は次のようなものである。
熊本に対していささか「よいしょ」が過ぎる気がしているが、如何・・・?。 
 歴史と人間-史的に見た肥後人気質
 (尚文中の□□なる文言は伏字とした)
 
私はこれまで肥後をテーマにした小説を書いたことがない。それは肥後という国が大変な「難国」だからである。宮崎八郎・横井小楠・林桜園をはじめとして思想家が群がり出ている。なぜだろうか。思想家はもともと妄想家で、その妄想をキチンと論理的に組み立てたものが思想だ。思想とは「俺とお前は違う」という差でもある。違うという厳しさと、どこが違うかという内容の問題が思想を生む契機となる。だから肥後は一人一党の国柄であり、統一の英雄が出なかった。上杉謙信や武田信玄がでたのは他の者がみな□□だったからだ。土佐の長宗我部元親にしても然り。薩摩にしても同様のことがいえる。薩摩人は奈良朝初期まで隼人とも呼ばれ、足が速く勇敢だったが、単純で民度は低かった。明治維新前後もさして進歩あとはみられず、肥後が学問を奨励したのに対して、薩摩では学問は二の次でしかなかった。西郷隆盛も島流しになってから本を読んで教養を身につけた人で、それまでは学問の浅い人だった。薩摩藩は、自分より上の人、即ち「お先師」の言うことはよく聞くという単純な社会だった。西南の役当時は西郷がお先師に当たるため、お先師の命に従って誰の目にも負けるとわかっていた西南戦争にも皆ついていつた。これが薩摩の藩風であると同時に隼人の風でもあった。しかし、薩摩の数々の歴史を見ても分かるように進退はなかなか鮮やかで、戦いの形勢が不利とみると薩摩兵の逃げ足はものすごく速かった。島津公が三百年かけて国づくりをしたにもかかわらず、薩摩人固有の骨格は変わらず、その中に隼人の習性が続いていたのである。     
 その点、肥後人は、侍は戦いが不利になっても退いてはいけないという教養を身につけていた。「退却することは侍のモラルに反する」という教養は江戸のもので、それまでの日本の歴史にはなかった。明治以前にこの教養を身につけていたのは肥後藩だけだった。肥後藩士はよく本を読み、特に中国の勇敢な武将の本を好んで読んだ。本の読みすぎだったかもしれない。隣同士でありながら肥後と薩摩がこれほど違うのは不思議だ。これは文教政策に力を入れた細川藩がそうさせたのであって、肥後は当時の日本の地方としては非常に変わっている。なぜ肥後がこのように教養の藩になったのだろうか。講談で有名な赤穂浪士は討ち入り後、各大名に身を預けられたが、細川藩に預けられた浪士たちだけが優遇され、他は虐待された。国法を犯した罪人を預かった各藩は幕府の意向を質したと思われるが、細川家は彼らを「侍の鏡」で、モラルが法より先行する」と述べたに違いない。幕府も学問にうるさい細川家の言うことを納得したのだろう。武士道は戦国時代に固まった非常に素朴なものだった。単なるカッコいいという美意識を細川家では儒教的な立場から難しい倫理学に仕立てたのである。このため、桜田門外の変で井伊大老らを殺した水戸浪士たちも細川家を頼ってきた。そこでも細川家は理由づけして彼らを優遇している。このような細川家の態度が藩内に思想家を生む背景になっているのではなかろうか。佐々成政のあとを受けて、加藤清正が尾張から肥後の領主として登場するが、清正はすぐれたエンジニアで今ならさしづめ大学の工学部に行った人だろう。清正は行政家、エンジニアであって政治家につきものの寝わざの政治は理解できなかった。清正は築城のほかに農業土木に力を入れ戦国時代に農業土木をやる大名などほとんどいなかった。せいぜい明智光秀と石田三成くらいだった。幕府が江戸城の石垣を各大名につくらせたことがあったが、清正の築いた石垣だけが雨が降っても崩れなかった。清正の築城法は基礎をしっかりとするだけだったが、彼がいかに優秀なエンジニアだったかがわかる。清正は農業土木によってわずか十数年のあいだに数百年間にわたって民をうるおす事業を成し遂げた。他家からきた大名で、難国肥後にこれほど受けいれられた人は珍しい。戦国末期の大名の中で、政治らしい政治をやったただ一人の人と言ってもよいだろう。  このあと細川家が肥後へやってくるが、忠利公は清正の位牌を捧げてお国入りした。それだけ肥後の国がうるさかったともいえる。細川家の屋敷神が「清正公」であるのも大変珍しいことだ。京都の足利家の親類である細川家と尾張の孤児だった清正とではその地位は比較にならぬが、細川家は清正を立てたのである。細川家は肥後で時習館をつくり学問に力を入れた。学問をすることによってボキャブラリーをふやし、同時に本来は肥後人の妄想だったものを倫理学的に構成して、明治以後の熊本の思想を形づくったのである。
                                                                          
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