津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

常設展示室

2010-11-25 16:16:03 | 熊本

 熊本県立美術館の本館二階に、永青文庫常設展示室が設けられるそうだ。現在の永青文庫展示室は本館別棟で年四回の企画展示が行われるが、いささか手狭でどうにかならないものかと思っていたが、今回このような流れは新幹線開業に伴う観光客誘致へ、永青文庫の偉大なる遺産を活用したいという関係者の考えが一致したのであろう。経緯はともあれ大変結構なことだ。

 熊本大学の永青文庫研究センター、八代市立博物館-未来の森ミュージアムや、(財)島田美術館などと連携を深め、より良い企画で楽しませていただきたいと思っている。

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奥勤めの女性達

2010-11-25 13:26:44 | 歴史

■武田信玄の孫・岩間六兵衛の先祖附は、奥方・海津に関する記述が数ページに及んでいる。夫婦して忠利の室・保壽院付きとして細川家家臣となったが、海津は「大御老女」として忠利・光尚・綱利に仕え、五百石物成を頂戴し六兵衛(三百石)よりもセレブでその実力が伺える。元禄期の熊本城下の屋敷図をみていると、「かいつ」と記入された広大な屋敷があった。現在のホテルキャッスル前の駐車場のある場所である。
 六兵衛は細川家にとっては「大恩人」とも言える。光尚は、六丸(綱利)生母である側室・清高院を、屋敷から下がらせよう(離縁)とした事がある。六兵衛は清高院の懐妊を告げ諌めるのだが、何故か光尚は「流産させよ」と命じたりしている。六兵衛は海津とともに妊婦を預かり、誕生後三歳になるまで自らの屋敷内で六丸を育てている。その六年後光尚は生母・保寿院の後を追うようにして亡くなるのだが、肥後国の相続について一波乱があった。その後も清高院や綱利の派手な生活振りが、家老松井興長の諫言を受けるなど六兵衛夫妻の苦労もいかばかりであったか、想像に難くない。海津は延宝二年(1674)八月に亡くなっている。綱利は32歳であったが、頼れる老女であった。

■また「刑部卿」という女性が在ったことが、次の文書で伺える。細川家文書・御印之物」に寛永十九年三月五日付奉行宛て文書として、次のようなものが有る。
「刑部卿まご成瀬弥次右衛門尉・成瀬元馬此両人ニ銀子弐拾枚遣候間堀平左衛門尉ニ可相渡也」というもので、「fosacawarocu」という光尚のローマ字印が押されたものである。ここに登場する成瀬氏なる人については、よく分からないし又この文書の内容についても良くわからない。
 この女性については細川家史料--人物索引に、「刑部卿」又は「田中善左衛門室」として次のようにあった。
【山名豊国の姪にて、宮部継潤の養女となり、田中吉政の一族で継潤の家老田中善左衛門(八千石)に嫁ぐ。善左衛門は関ヶ原役で小早川秀秋の手に属し討死。のち豊前にて忠利に召出され、忠利室保寿院に仕う。光尚誕生により直に附属され、日夜御側に仕う。光尚の江戸へ発駕する時も供し、登城拝謁の時も附添う。】 田中善右衛門についても良くわからないでいる。

■ 「ゑもんこう」(右衛門督)という人が在り、これも奥勤めの人であるらしい。この人が弟・大喜多又兵衛(後に細川光尚に殉死した、山中又兵衛・氏連)の召出しを希望した文書がある。細川家史料に於いては、(-1141-)で紹介されていた。忠利が光尚の為に召し出したものである。
  (-1142-)寛永十五年閏七月廿九日追而書として次のように有る。
  「尚々、ゑもんのかう(右衛門督)をとゝ、其方へ奉公申度と申二付而、下候故、
  書状調渡候へ共、此状ハ急被脚ニ先へ下し申候、跡より右之奉公人下り可
  申候、追而と書状有之付而、如此候、以上」
そして九月十一日書状(-1145-)には次のように有る。
  「大北(大喜多)又兵衛其元へ著申候由、得其意候事」

ほぼ同時代を生きた、「海津」「刑部卿」「右衛門督」の三人の女性、それぞれの人の出自が面白くまた関係者の生き様も興味深い。



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