津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

丸に一引両紋

2011-11-10 20:19:27 | 歴史

細川家の家紋として武鑑に「丸に一引両紋」が掲載されている旨のご連絡を、盛岡在住のH様からいただいていた。
このたび、武鑑などの写しをお送りいただき、また細川侯の下国道中絵図にその家紋が描かれていることのご指摘を受けた。

今般それらの資料をお送りいただいた折の氏のメールをご紹介する。

【私は盛岡市在住でして南部氏の城下町に住んでいる縁もあり、南部向鶴紋の意匠に疑問を持ったことが一連の関心の始まりでした。南部向鶴紋にも鉄板の定説があり、私は極めて格好よく言えばそれに異を唱える立場です。学術的に立証するに足る資料があるわけでもなく意匠の変動は要するに大名家個人の胸先三寸好き嫌いによるものと考えれば他人がどうこう言う筋合いでは無いのですが、身分社会の江戸時代において使い分けがあったことは確かであり、当時は当たり前であったはずのそれらが今日に記録として残る性質のものではなかったという事なのでしょう。例えば伊達家の竹雀紋は藩政初期から経年的に改変が繰り返され幕末期に一定の完成形に至ったものが戦国時代から存在するかの様に認識されています。意外な程関心が低く研究蓄積が偏った分野らしく先達の業績へタダ乗りさせて頂くにしても今一歩の用心が必要です。江戸時代においても厳密に目くじらを立てて意匠管理されていたわけでは無いでしょうし、そこは嫡庶の遠慮に拠る自制の結果であったかも知れませんし、工業技術が手工業で担われていた時代ですから単一の意匠を染め抜くにも厳密な意味での同じものは二度と再現できなかったでしょう。しかしながらやはり法則性は存在するのであり、家系の誇りと由緒、家中の序列を示すものとしてこれ以上に象徴的なものはないのではないでしょうか。それが不文律(禁制の記録等が残っているものもあるようですが)の中で体系化されていた(かもしれない)武家社会の有り様も含めまして。南部家の絵画的な鶴の意匠は差異に拘ると泥沼にはまります。細川家の幾何学的な意匠の家紋は比較的立証が簡単そうに見えるのですが中々どうしてこれがまた・・・。

 




   大分市鶴崎にある剣八幡にある絵図の中に、細川家の家紋の一つと思える「丸に一引両紋」が見える。
又、武鑑に於いても同様の紋が掲載されている。




   この武鑑は綱利代のものであるから、時代は結構古い。利重が兄綱利知行から35,000石を内分されたのは寛文六年七月廿一日だとされている。綿考輯録は光尚公までの事跡が書かれているが、家紋についてこのことは書かれていない。全く推測の域を出ないが、この丸に一つ引両紋は綱利の代からではなかろうか。

コメント (1)
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