藤孝公には書物を読むための油が切れ、ある神社の灯明用の油を盗んで勉強をされたという逸話がある。
「藤孝事記」に次のような一文があるが、手許不如意で料紙を買うのにも苦労をされたらしい。
幽齋様御若冠之比ヨリ和哥ハ不及申、文学にも御志アツカリシカ、御勝手アシク書籍を御調被成候助モナシ、仍御鉄炮ニテ鳥ヲ御打被成り、其鳥ヲ御草履取ノ何カシニ被仰付御ウラセ、ソノアタヒニテ料紙ヲ御モトメ被成、書物ヲ御手ツカラ御写シ被成候ト承及候
このような言い伝えに、この草履取りとは一体誰かというお尋ね(忠興公カ)に、牧丞大夫が「ソレハ多分大塚源左衛門ニテ可有候」と返事している。
其子細ハ幽齋様へ最初ノ御奉公人ニテ初ハ御草リヲ取、後ニ御知行被下候ト聞及候、彼源左衛門ハ只今隈本御鉄炮ノ添頭ニテ侍ル大塚甚右衛門為ニ者祖父、大塚忠兵衛入道当帰斎為ニハ父ニテ御座候ト答ヘ申候事
侍帳をみると次のようにあるのだが、源左衛門なる人物は居ない。又左衛門の事であろうか・・・・
又左衛門 丹後御入国以前より御奉公、於豊前知行百石拝領
当帰斎 【田辺城籠城・源次】
丹後御召出、光寿院様へ御附被成候、初は忠助後ニ源次郎と云、
朝鮮御陳ニハ、射手の人数之由、剃髪して長庵と云、御伽の列にて相勤、後御意に
よりて当帰斎と改申候 (綿考輯録・巻五--大塚源次項)
御医師衆御伽衆御茶湯衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
1、甚右衛門 原城にて功有、弐百石被下
一番長岡右馬助組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
甚右衛門の孫が著名な儒学者・大塚退野である。後の横井小楠の実学党の思想形成に影響を与えたといわれる。
http://www17.plala.or.jp/t-ikoma/index.html
近世史家で赤穂義士研究家として知られる畏友・佐藤誠氏から、上記タイトルの史料集を御恵贈たまわった。日本史史料研究会の研究叢書8 となるもので、柴辻俊六氏が所蔵される中世文書18点、近世文書28点が紹介されている。こういう貴重な史料が私蔵されると、なかなかお目にかかれる機会が無い。
細川家関係では、細川三齋が牧左馬允に宛てた印判状、また同じく三齋が目医師槙島慶圓宛ての書状が掲載されている。
又、菊池武澄証判有間澄明軍忠状(平正九年)などもある。
その他の書状もまさに一級資料であり、このような形で拝見できることは嬉しい限りである。発刊に努力された皆様に敬意を表したい。