幽齋と忠興が細川姓から長岡姓としたのは、元亀四年信長に桂川以西の地を与えられてからである。
足利将軍家から離れ信長に追従していくことになる。
今度彼対信長彼抽忠節誠以神妙之至ニ候
仍而城州之内限桂川西地之事一職申談候
全領地不可有相違之状如件
元亀四
七月十日 信長朱印
細川兵部大輔殿
この桂川を限りとする西の地を領地としたときに、この地が旧都にて城州の名所歌枕の地である所から、御称号を長岡と改められた。
【長岡の都は桓武天皇延暦三年に奈良の京を移され十三年に及ひて今の平安京に遷都あり、此所樫木原の南より山崎の北迄南北長き岡山なれは長岡と号るもの歟、捴名を西の岡と云て東之方桂川を限り西は丹波の山に至、南は山崎、北は嵯峨を境とする由、城地は青竜寺村・神足村ハ勿論上野村迄も御郭内にて有之たるとなり】 綿考輯録・藤孝編p72~
しかしながら信長亡き後天正13年(1585年)、忠興は従四位下・侍従に叙任すると共に、秀吉から羽柴姓を与えられた。
そして秀吉没後は長岡姓としたが、大阪夏の陣後元和元年(1615)に至り十二月廿四日家康の命に依り細川姓に服している。
慶長6年(1601)には三家老をはじめ沼田氏、飯川氏に長岡姓を与えているが、忠興本人は未だ細川姓には服していないことになる。
一方忠利は慶長5年(1600年)これも家康の命で、長岡姓を細川に服姓して内記と名乗っている。