【細川刑部太輔へ養子ニ被遣後ニ刑部太輔実子出来ルニ付、公方へ御取返シ候て三淵伊賀守智慶院ノ妹(養源院)婚タルニ付、三淵へ御預・・・】
「藤孝事記」にある「舟橋家説」のこの文章の細川刑部太輔とは一体誰なのか。後段の文章には次のようにある。
「右ハ舟橋枝賢卿ノ娘寿光院幽齋ト兄弟ノ様ニテ生立被申候故、能覚ラレ候て被申トノ事ニ候、舟橋枝賢卿ノ後室ハ、細川刑部太輔ノ後ノ内室ニテ御座候、寿光院ト幽齋ト一代兄弟之様ニ御座候由ニ候」
これによると、幽齋と兄弟(ママ)のように育った寿光院の継母が細川刑部太輔の後室だから、この証言とも言うべき一文は信用に値するというのであろう。しかしながらこれを引用された小川剛士氏も「晴広カ」とされるように、綿考輯録に於いて忠興公やしゆゑいなる老女が云う「刑部少輔」であるかどうかは確定しがたい。
先にブログで「壽光院と寿光院」という文章を書いた。これは細川家家老米田家の重臣・中山宗俊が書いた記録に元ずくものだが、これによる記述と刑部太輔や寿光院の関係を書き加えると次のようになる。
(晴広カ)
● 元・細川刑部大輔後室
↓
●
∥
清原宣賢--+--業賢---枝賢--+--(国賢)-------------秀賢
| | ∥
| +--寿光院 (六角禎承室) ∥
| ∥
+--智慶院--+--幽齋---忠興===============●
∥ | ↑
細川晴員 +--壽光院 |
∥----------------------●
佐々木越中守
「米田家臣中山宗俊覚書」より作成 責・津々堂
■■表示は小川剛氏の系図より引用
私は山田康弘氏の「細川幽齋の養父について」を全面的に受け入れるものであるが、このブログ冒頭の「細川刑部太輔へ養子ニ被遣後ニ刑部太輔実子出来ルニ付、公方へ御取返シ候て・・」の項目に注目している。
細川元常の実子についてはどうか。所がこれは幽齋と殆んど同じ時期天文三年の四月に生まれた刑部少輔(彌九郎・頼勝)という人物だが幽齋よりも二十一日ばかり早い誕生であり、天文廿二年十一月に死去した。そして廿三年六月元常死去にに伴い幽齋が相続をしている。
養父問題はこの刑部太輔(晴広カ)に実子が出来たという時期などについて、証明が為されるならば更に補強されるものと思うのだが・・・・