またまた黒田蔵人のことである。福嶋正則の家臣であったが福嶋家没落後、筑前黒田家と細川家で争うようにして蔵人の召出に奔走した。将軍家にも覚え目出度い蔵人召出の経緯については次のようにある。
大日本近世史料・細川家史料(1710)より
尚々、餘仁して申事ニて無之候間、其方直二可被申候、以上
追而申候
一、大前黒田筑州(長政)ニ居申候小性、福島太夫(正則)殿高麗ニ而もらハれ候て、其後太夫殿
つかひたてられ、此中共 上様(徳川秀忠)も御存知被成候黒田蔵人と申者之事ニ而候、今度
廣嶋へ御人數不下以前、黒筑より舟を遣、太夫殿之儀 御前相果候、然間、妻子をハ先筑前へ
越候へ、前より存知之者候間、如何様ニも身上可被爲馳走之由被申越候處ニ、蔵人返事ニ、か
様之砌寄思召忝存候、然共、左衛門太夫一著見届不申以前は、妻子なと何方へも遣申事不之由
返事申候つる事、
一、其後一著候て、おとな分之者大坂へ上候所、又黒筑より使を被遣候て、米なと兵粮ニ仕候と申、
被爲音信之由候、それをハ度々之御懇忝と申候て、請取候事、
一、其後太夫殿之高知行も取候者共、それ/\へ有付候、先度其方より被申越候ハ、 上様御諚ニ
て、方々へ被分遣之由候つる、左様ニてハ無之、縁引/\ニ方々へ有付申候を、其主/\より
上様江被申上由候事、
一、此黒田蔵人も、今度も 上様立 御耳候書付之者共之うち候へハ、われ/\所へ前かとよりせ
かれを出置、其上宇佐之大宮司ニて候故、われ/\所へ出度との望ニて、何方ともなく西國へ
罷下之由、竹中采女(重義)所迄ハ申たる由候、右之分ニて候故、われ/\所へ下候、此之者
之儀、用ニも立候者を前より知り候、其上宇佐之者を筑州なとへ遣候へハ如何と存ニ付、高知
行之者ニ候ても、先可召出と申候て、國■しまて呼寄置候事、
一、福左太之者、加藤肥後(忠廣)を初メ方々ニ抱置候間、此儀大炊殿(土井利勝)迄申ニ不及候
へハ、第一ニ宇佐之者候、其上用ニも立候者ニ付、黒筑事之外之おしかりニて、此中も人を付
置、懇之躰候を、われ/\所へ出候■か様ニ仕内ニ、竹中采女を以本上州(本多正純)なとへ
被申、此者を抱申候由被申上候■、定而抱候へと可被 仰出候、其内ニ■や我々所へ有付候■、
御諚之由申遣候へハ、それを不致承引、越中所へ罷出候と被申上候■、御諚をそむき候と 思
召候てハ如何候間、大炊殿まて此段々前かと可被申事、
一、可被申專之所ハ、黒筑前かとよりほしかりニて候へとも、蔵人兄蜂屋隠岐と申者、黒筑所を走
候て太夫殿へ參、此中居候、其者を捨て黒筑へ參候こと第一ニ不成、第二ニ■當國之者候、第
三ニ■われ/\所へせかれ一人前かとより越置候ニ付、我等所へ出候、其上黒筑へ高知行ニて
ハいやと被申候故、彌われ/\所へ出候條、得其意、大炊殿へ内々語候て可被置候、恐々謹言
(元和五年)十月十五日 越(ローマ字青印)
内 記 殿
進之候
さてこの黒田蔵人は時枝平太夫の男であるとされてきた。
処が奥方の父である加藤重徳(黒田如水の恩人)家の系図には、次のようにある。
(加藤重徳)女子 黒田蔵人室
母伊丹氏 蔵人者豊前宇佐城主宮成吉右衛門子也初曰安大夫仕 孝高公武功賜黒田氏後福嶋正則請
長政公而為臣福嶋氏亡而仕細川氏其子早死於是嗣絶云
真実やいかに・・・・・・
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11/13追記:ぴえーる様からコメントをいただいた。いつもながらのご教示に感謝申上げる。
宮成公建-公里=公基-黒田蔵人
宮成公建-隆令-公基
宮成公基=宮成吉右衛門です。
吉右衛門は、時枝家を継いだ宮成隆令(時枝備後)の二男です。
「宮成家譜」には公基の幼名長松丸、通称右衛門督、黒田長政に仕えて黒田吉右衛門政本と称したことしか書かれておらず、宮成吉右衛門=時枝平太夫なのか確認できません。
東大史料編纂所に時枝家の家譜があるようですが、残念ながらネットでは見れず。