津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

朗報

2012-01-18 18:34:29 | 徒然

 快挙というべきだろう。熊本の古刹・禅定寺の西の端を縦貫する都市計画道路が計画変更されることが発表され、メディアが夕方のニュース番組で報道した。
                      www.tku.co.jp/pc/news/view_news.php?id=25258&mod=3000 
加藤家・細川家の重臣などの歴史的お墓が数多くあり、貴重な文化財の保存の意味をもってのことであろう。
変更がどのようなことになるのか明日の新聞報道などで確認したいと思うが、なにはともあれ、県知事の大英断に拍手を送りたい。
我が高祖父・上田久兵衛の墓も改葬を余儀なくされるかと思われていたが、これがどうなるのか気になるところではある。

昨年末の報道により、よい結果を待っていたのだが誠にうれしい。
                     http://kumanichi.com/rural/rekijyo/20111209001.php

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紆余曲折・・八代領と宇土支藩の創立まで

2012-01-18 14:48:46 | 歴史

このブログで取り上げた中から、八代領の相続問題や、宇土支藩の立藩についての関係資料を引っ張り出し時系列にまとめてみた。

■細川内膳家「細川忠雄家譜」より
     寛永九壬申年 忠利公肥後国御

     拝領其冬被遊 御入国 三齋様ハ八代
     之御城へ被為 入候依之追々従 三齋様
     休無様へ被仰進候ハ御子方御同道ニ而
     八代江御下り被成候様ニ左候ハゝ宇土八代
     六万石程御料地被進往々八代之御城江
     御住居被成候様被仰進候得共御料地等
     被進候との儀甚タ御事六ヶ敷思召候ニ

     付被押移御下向之儀御断被仰上置候(以下略)

■寛永15年12月5日光利(光尚)江之御書之内
 同名刑部事身上成不申候、迷惑仕付而金子かされ候由、我等分別に相不申候、子之事ニて候へは三齋様御こらし候ハんと思召、迷惑仕様ニ被仰付候ニ、肥後取持候事、却而刑部為如何と存よし、其上其方より銀なと参候由、八代へ聞候ハヽ、弥跡を御詰候事可有之候、又御失念ニ而候事も可有之候、とかく御分別之子細可有之ニ不入儀と存候、我等為にハ弟、其方為ニハおちニて候へハ、悪敷仕ものにて無之候ニ付、弥刑部為如何と案入候

■寛永16年正月6日光利君江被仰進候御書(抜粋)
 (正月四日忠利は八代に三齋を見舞っている)
 同名刑部事中を御たかい候而御誓文にて御直り候ましきとの儀ニ付而、左候へハ人しちニ進上被成候、刑部三齋様と中たかいニ落付候へハ、 公儀へ人しちニ上ケ被置候而も役ニ不立儀ニ候間、立允を替りニ江戸へ可被召連と御老中へ御談合候へハ、尤との被仰様ニ候(以下略)

■寛永16年9月2日光利(光尚)君御自筆之御口上書之控
  八月卅日ニ酒讃岐殿へ私参申候、口上之覚
 立允事越中弟ニ而御座候へども、越中肥後へ罷下候刻、又越中江戸へ罷越候刻計ニ八代より参候まで、ふだんハ八代ニ計居申候故、立允心をも越中ハ不存候故、兄弟之儀ニ御座候得共、大国をも拝領仕、立允かくごをもミとヾけ不申候而、むさと知行なと遣ハけニ而も無御座候、然共為能力三万石遣置申候事

 扶持をまったく与えられず、光利に借金の申し入れをした刑部の経済状況や、三齋との修復不可能な仲違い状況、そして立允が刑部に替わり証人として江戸へ下されるであろう前段の話として、大変興味深い。「仲違い状態の人間を(江戸に)人質として置くのは公儀に対して役に立たない」という認識が大変面白い。

■寛永十六年正月五日、忠利君八代ニ御出被成候(詳細は覗えないが三犀齋の隠居領の相続についての談合か?)

■寛永十六年二月五日、三齋君御隠居之御家督を立孝主江御譲被成候
    「予ての御名依存ニ御存正之内御譲置せらるへきとて、吉日を被撰、今日八代本丸でいの間
     にて、御父子様御着座、一番に朽葉之御指物佐方与左衛門持出、是ハ大坂之役に御差被
     成、弐番ニ御旄を志方半兵衛持出候、是ハ信長公より御拝領度々無越度目出度とて御譲、
     御樽肴・熨斗・銀五百枚長岡河内披露仕候、此御座敷にて御囃子被仰付御家中御侍不残
     御酒被下、御肴之熨斗を頂戴、扨御旄被遣候時之御意ニ、休無ニ遣しても不苦ものなれ共
     牢人にて不入もの也、越中ハ大名也、其方ニ譲ると被仰候」

 『部分御舊記』(熊本縣資料・近世編第一 p289)に、正源院宛忠利書状(抜粋)として次のような文書がある。
    「我等弟立允事人質之為替と江戸へ三齋御下候 御目見させ被成度由に付て心得之由返事申
     候又重而立允身上之事は先ツ三齋御一代は此中のことくにて江戸ニ居三齋後は知行都合六
     萬石に可仕由約束仕埒明ケ申候 (略)」

     舟田義輔氏の研究論文『宇土細川支藩成立の前後』の、系譜「5-細川立孝」の欄に、
     【寛永十六年六月廿二日三齋死後は隠居料分を加えて立孝の家督を六万石に決める
     (部分御旧記による)】とあるが、上記文書のことであろうか。
                (この項了)

この二月五日の儀式の不思議さは、本藩からの出席者が見えないことである。
六月廿二日という日付は、上記のことについて忠利が正源院への書状の中に認めたものであり、その日をもって「決めた」という訳ではあるまい。更なる史料の登場が待たれる。
ちなみに東大史料編纂所の大日本近世史料-細川家史料の人物索引では、正源院(しょうげんいん)とは『東大寺塔頭正源院塔主。初代住持法印訓賢、あるいは二代住持権律師賢盛か』だとしている。

 寛永十六年卯月廿七日付、三齋の御内意として、長岡佐渡守・有吉頼母佐・長岡監物宛の忠利書状に次のようなものが有る。(抜粋)

立允 上様へ御奉公之事黒田殿子達の様ニご奉公させたきとの三齋様御内意と申候 其段加賀殿なと御申候様ニ聞申候處三齋様いか様之御このミもいまたしれ不申候 御老中之御相談たるへきと存候 先此段もさた不入事色々之儀を申物にて候間如此候事

 「黒田殿子達の様に・・」とは、元和9年(1623年)黒田長政の3男・長興が福岡藩より5万石を分知され秋月藩を立藩したことを指すものであろう。

 ■ 寛永17年(1640)正月4日、(江戸証人)興孝主江戸御立被成候・・・室津にて御薙髪・・・3月21日熊本御着 
 ■ 寛永18年(1641)3月17日 細川忠利死去   5月5日光貞遺領相続 
 ■
寛永19年(1642)8月休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京

 ■細川立孝、正保二年閏五月十一日死去

 ■細川立孝死去後三齋は、子・宮松の行末を案じて光尚に対して次のように頼み込んでいる。

    尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
    念可被下候、以上
  為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
  如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
  返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
  様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
                               三齋
       六月廿九日                   宗立(ローマ字印)
          肥後殿
             御返事

 ■細川忠興、正保二年十二月二日、八代ニ薨ず。享年八十三。法号松向院三齋宗立。

  【古老の節とて或覚書】
 尊翁御容体被為重候旨、村上河内・志方半兵衛より熊本ニ御注進申上候処、長岡佐渡守・同式部少輔父子江稠敷御内意被仰付、早速八代江被差越、猶又追而長岡監物被仰付被差越候得共、御他界之御様子承り途中より引返し、興長父子ハ直ニ八代江罷越、御逝去之御跡故直ニ相滞り、御城内外之諸事裁判ニ而取締メ之処、日数七日より内ニ引払可申段熊本より厳命有之、立允様は当閏五月御他界故、御嫡宮松様と其妹(ママ)おさん様と申を始、不残小川御茶屋江御七日目におつほミ、御家中御士も十人之外は御暇ニ而、八代御城内之諸道具ハ佐渡守ニ被仰付不残受取、熊本自分屋敷江取入候段達御聴、此儀甚不被為叶御心、若類焼等仕候ハゝいかゝ仕候哉と御咎メニ付、熊本御城江取納候、八代江は早速為御城代志水伯耆元五被差越、佐渡守より御城引渡し被申候間、八代ニ而御法事之沙汰不承、定而熊本泰勝寺江も御座候哉と云々

 ■三齋君御逝去後、刑部殿を被召候て、八代城二可被差置旨、被仰出候得とも、堅く御辞退有と云々」とある。 綿考輯録巻61(p324)

 ■三齋の死後の八代の動静を藩庁に報告した報告書(丹羽亀之允言上之覚)のなかに次のような一文がある。

    三月十六日、藤崎作左衛門宛書状(抜粋)

   此表(八代)侍衆■二而取沙汰候ハ公儀御年寄衆様へ可被遊御談合与被成御意候ハ
   三齋様御領分ハ松助様と中無殿御息女と御縁辺被仰合松助様へ三万五千石可被進と
   可分置御談合候宮松殿ニ者三万石被進候二相究可申由ニ御座候

 この文中に登場する「松助様」とは、光尚の弟・尚房のことだが、尚房に中無(中務 立允・立孝)の息女を娶わせて三万五千石を与えようというのである。中務の息女とは鶴姫(長命)しかいない。尚房が寛永十四年生まれ(当時九歳)、鶴姫は寛永十八年生まれ(当時五歳)である。結果としてこの話はまとまっていない。

 

 ■正保三年卯月十七日付、幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。

酒井讃岐守の書状である。
   一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
      れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
      承度候事

 これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
   一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
      の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
      都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以
      後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上

 三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。

 宇土細川家の重臣・井門家の井門家文書「御三代記」には、立孝(宮松)について次のように記されている。
   一、寛永十四丁丑三月四日戌ノ刻肥後國八代三ノ丸御誕生、御氏神妙見宮也、御若名宮松、帯刀、
      其後丹後守、御名乗行孝、御母公慈廣院殿、元禄四辛未六月十日御年八十三御逝去、未ノ年也、
      御法名雲岸性浄
   一、御誕生之儀御妾腹故、三齋公御機嫌之程無御心許思召御隠便也、依之村上金左衛門被御預
      ケ成、御部屋迄参上仕候者、長岡河内・左方与右衛門此両人迄折々御容躰奉伺候也
   一、同十六已卯御歳之夏京都御登り、其節村上金右衛門母子共御醫師永井良安御供仕候、従立
      允公萩原兼連卿御縁在之付、御預ケ成候(中略)
   一、正保二乙酉閏五月京都御發駕同月二十五日江府御着座遊候、萩原殿ハ七ケ年程成御座
      候(以下略)

 

 ■正保三年五月廿六日光尚は長岡佐渡守に対して、八代城に差置く旨の書状を発しているが、この書状からこれらの措置が事前に全く相談がなされていないことが伺える。

    貴殿八代へ召置候事、かくし申事ニ而ハ無之候得共、八代向之事未被
    仰出候間、其方迄内証申遣候間、可得其意候、其方外聞無残所候、此
    段式部少江可有物語候、八代向之儀、四五日中ニ被 仰出可有之候間、
    其刻一度ニ急度可申遣候条、それ迄ハ不存分ニ可被仕候、謹言
                         肥後
       五月廿六日              光尚
             長岡佐渡守殿

 

 細川行孝譜から

細川丹後守源行孝ハ立孝カ嫡子ナリ 初帯刀ト穪ス 正保三年丙戌七月二十九日本家細川肥後守光尚願ニヨリテ肥後宇土ニテ三萬石ヲ分チ領ス 同年八月四日初テ拝謁シ承應二年庚巳十二月二十8日従五位下二叙シ丹後守ト穪ス


 

 

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