津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興晩年の七年(天草島原の乱以後)

2012-01-10 21:22:18 | 史料

寛永15年(1638)9月7日、家光公於御城(西御丸)三齊君江御茶被進候
   同        9月14日江戸発駕、11月4日熊本着、5月八代御着

   同       11月6日の泰巌寺宛御書
                ・去々年当地出候時より二度肥後江ハ下間敷と存極上り候・・・
                ・(天草島原の乱において)立允命をひろい候間、其悦計ニ下候事

寛永16年(1639)正月5日、忠利君八代ニ御出被成候
   同       2月5日 三齊君御隠居之御家督を立孝主江御譲被成候
   同       2月6日八代御発駕・・7日於熊本城忠利君御饗応、洛外吉田ニ御逗留被成、3月下旬御発駕・・・4月4日御着府
   同  (立允)5月廿日八代御発駕・・・・京都・・・8月2日御着府     

寛永17年(1640)正月4日、(江戸証人)興孝主江戸御立被成候・・・室津にて御薙髪・・・3月21日熊本御着

寛永17年(立允)・・元服・中務太輔立孝と改名 9月廿日初御目見

寛永17年7月4日吉田御立被成、・・・同16日熊本迄御着被成
寛永17年9月 女子誕生くま(後すま) 8月生母・ミつ共々深尾長兵衛に被下 (又、糸という御女中に御名御百という女子誕生ともいう 生年月日不詳)

寛永18年(1641)3月17日 細川忠利死去
            5月5日光貞遺領相続 19日江戸発・6月14日熊本着・7月朔日八代にて三齊対顔、9月29日熊本発・10月26日江戸着
            7月19日八代発駕・8月14日洛外吉田着、10月17日発・同晦日江戸着 11月19日登城
            12月20日、諸大名之系譜御改之事ニ付齊藤佐渡守へ返書
寛永19年(1642)2月 登城
            4月26日江戸御発駕、6月17日八代御着
            8月休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京
寛永20年(1643)正月8日、御曾孫六丸君(綱利)於江戸御誕生
            正月廿日頃、光尚君八代ニ御出 (此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候)
            6月、立孝君江戸御立、7月11日八代江御着
寛永21年(1644・正保元年)2月29日、細川中務殿(立孝)為御参勤八代を御立
正保2年(1645)閏5月11日、中務立孝主於江戸卒去、31歳

   同        11月三齊君御煩重らせられ、刑部殿を被召候・・・(興孝主御家記)

   同        12月2日、於八代城御逝去被成候、御年83、御法名松向寺殿三齊宗立大居士

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