12 園清水加茂春日稲荷勧請有加茂稲荷
今ハ社なし畑の中尓森有春日社ハ春日寺
の鎮守とて今尓御葬場の脇尓有 御逝去
之節御鷹籠を放せし 靏ハ御法事の節
人をも不恐御寺の庭尓来りたる也 御秘蔵の
御鷹ハ御火葬の上尓て輪を懸落て火に
入とも云 春日寺の井尓入たり供云 鳥類迄も御
別連を慕被奉か事誠尓希代の名君也 況や
人としてなどか忠誠なからんや 御馬ハ御火葬
の□此舌を喰切り死るよし
阿部弥市右衛門殉死評判悪敷事
此度殉死十九人忠誠何連も甲乙可有様なし
然尓阿部弥市右衛門一人世上ニ評判尓あふこそ是
非なけれ 弥市右衛門多年の御高恩明石猪之
助と申時分ゟ御懇意ニ而段々御取立被遊今千
石領地し子共も有馬御陳之働ニて夫々被
召出新知をも被下置事なれハ今度多年の
御高恩可奉報と思ひ殉死の願を致ける尓
忠利公如何被思召にや御免なく志ハ御満足
仰出けれハ此度の御別連無是非重ひ止りけり
自然の事も有らん折ニ□光尚公の御馬の先
表紙無之、年号及吟味候処、相分不申、
寛永年之初、小倉ニ而之御帳と相見候
(表紙貼紙)
「寛永元年十一月ノ日帳也、其証ハ加室にて
事
破損ノ舟有、日帳に十一月欠居ハ則是也、安田」
〇前欠
|
| 八日
|
飛脚へ貸銀ノ差紙 |一、江戸へ御飛脚ニ遣御鉄炮丸山少右衛門・安見円介、御かし銀可被相渡候とのさしかミニ加判候
| て、大坂へ遣候
| (松井興長)(小笠原長元) (直正)
|一、式ア殿・民ア殿ゟ中津御奉行衆へ参候御状、寺本八左衛門与川上八右衛門ニもたせ遣候事、
| 間
長谷川守尚書状 |一、長谷川権六殿ゟ、 殿様へ上ル御文箱、問太郎兵衛ゟさし越候を、小左衛門持参、
|
到津百姓善兵衛等 |一、到津善兵衛中津へ参候儀日ハ、去二日ニ而候由、上田忠兵衛登城候而、被申候事、
中津へ行く | 〃
| 玄功寺
玄功寺 |一、式ア殿ゟ〇被遣へ被遣歩之御小性吉田佐左衛門、今日被罷帰候、則退念寺にて玄功寺ニ逢、御
退念寺 | 〃〃
| 返事をハ、式ア殿へ相渡申由被申候事、
| (与脱) 江戸へ
三斎書状 |一、御鉄炮衆杉山藤兵衛安見円介・谷忠兵衛与丸山少右衛門、差遣候ニ、 三斎様ゟノ御書はこ壱
| (辰珍)
| つ、津川四郎右衛門殿ゟ、かねノ御花入壱つ、はこニ入、式ア殿・民ア殿ゟノ言上壱つ、我等共
| 方ゟノ言上壱つ、持せ遣候事、
|
|
| 九日
| (国東郡)
| 「此七左衛門人戻ノ内、日野村久八事、
外様鉄炮帰着ス |一、江戸ゟ不破角丞与山崎六左衛門・宗ノ七左衛門・松村七兵衛太夫幷外様御鉄炮三人罷下候、
| (与頭カ) 〃〃
| (坂崎成政)
中津人返シ | 一、中津御蔵納人戻ノ内、熊谷忠右衛門者壱人、道家左近右衛門者壱人、右之衆つれ被下候、幷坂
| 清左者壱人被下候へ共、是ハ中津ゟ之御状ニも無之者、
|
檜角材 しゝれう |一、味噌屋慶徳舟ニ、大坂ゟ桧角七本・しゝれう六枚、運賃とらすニ積下り申候、其之子細ハ、今度御
町舟運賃無料ノ理 | 供替り衆下り被申候ニ付、舟を何も留置候処ニ、此舟ハ大船ニ而候故、留置候へハ、大分損懸り
由 | 申候ニ付、舟頭望候而、御材木積下り申候由ニ候事
|
大工知行ノ口明 |一、中津御大工吉井加右衛門知行口明之儀ニ付、御借米奉行手前穿鑿仕候而、指出シを取候て、式ア
借米奉行 | 少輔殿へ進之事、
|
中津人返シ |一、中津御蔵納人戻之内、宗七左衛門戻し申候ニ、寺本八左衛門与之御鉄炮井ノ本羽右衛門と申者ニ
| つれさせ、遣候事、
|
|一、国遠道倫被罷下候事、
|
老松の常盤かがやく 淑気かな 津々
昨年末には政治家の収賄の発覚や、ゴーン被告の海外逃亡のニュースが飛び込むなど、令和の御代の納めは思いがけないことでした。
なんだか波乱含みの世情となりましたが、昨年のような自然災害などがない穏やかな一年であってほしいと思います。
オリンピックの年ですが真夏での開催や、マラソンの札幌開催など、これも何事もなく終了することを願うばかりです。
私はといえば、この19日にはまた齢を重ね78歳になりますが、あちこち身体にがたが来ていますが、だましだましの一年になりそうです。
元旦はニューイヤー実業団駅伝、二日・三日は大学駅伝をTV観戦のいつもながらのお正月です。正月太りせぬよう気を配っています。
よいお正月をお過ごしくださいませ。当ブログも本日再開です。