29 ける尓阿部一家刑人と成てハ又七郎夫婦も心の
外尓疎々敷過けるか又七郎妻女尓向ひて此
度阿部一類刑人と成てハ憚り有て我等ハ忍ひ
ても問ひかたし女の事ハ御咎も有まし夜更
人静て忍ひやかに問ひ給へ彼等一家滅亡近き
可あり妻女聞えて実も常々馴染わりなく
語りし尓 いと阿王れ尓古そたへ問ひ見■本しく
思ひしか其上を憚り過せし尓苦しかるまし
と思ひ給ハヽひそか尓幼者共を慰めんと其夜
阿部か元尓至り物語り時を移せハ阿部其外家
内の者歓び世ハ春なから我等一類ハ御咎の身
と成秋の露と劔下尓消ぬへし 今更歎き
てもかへらぬこと也 無跡御吊ひ頼参らすと袂
をぞ志■ける 既尓二月廿二日討手向ふと聞へ
けれハ又七郎ハ今度討手の外ハ己か家々を
堅め火災を慎み可有尊命なれ共馳向ふ
人々の働を余所尓見んも本いなしと数年
手練の鑓を提廿日の夜人静りて阿部か境
の垣縄を切置て廿一日未明尓討手の面々阿
部か屋敷尓押入と一同尓件の垣を踏破り兼
而案内ハ知たり屋敷の内何ク尓か兄弟ハ阿り
やらんと尋し尓弥五兵衛下人を下知して臺所
偶然というものは不思議な出会いを呼ぶ。PCに間違った語句を打ち込んだら「隆達」にとび、そしてこの本「戦国時代の流行歌‐隆達節の世界」に導かれた。
その内容説明によると次のようにある。
戦国末から江戸初期にかけて一大流行をみた隆達節は、高三隆達が独特の節付けをして歌い広めた一群の歌謡である。
しかし、隆達の実像は後世の数多くの説話に包まれて必ずしも明らかではない。本書は新しい資料を博捜し、隆達の
生涯とその幅広い交遊関係を探る。さらに恋歌を中心に隆達節の代表歌を紹介、そこに現れた清新な言語感覚と叙情
を指摘し、乱世に生を享けた人々の無常観に裏打ちされた「流行歌」の世界を描き出す。
目次 :
1 隆達の伝記(家系/ 高三家をめぐる資料 ほか)/ 2 隆達の交遊圏と画像(歌本を贈られた人々/ 宗丸 ほか)/
3 隆達の説話と歌謡(説話の代表例/ 小笠原監物 ほか)/ 4 隆達節の世界観(表現の特徴/ 「異なもの」 ほか)/
5 隆達節の受容(阿国歌舞伎踊歌/ 『竹斎』 ほか)
県立図書館には所蔵していないようだから、買うしかないかと心を動かされている。
細川幽齋は息・忠興が豊前小倉に入国後の翌年豊前を訪れている。その際、薩摩の嶋津義久が幽齋を訪ね小倉城で歓待された。
その酒宴の中で細川家の家臣・某が、義久が「一重切(一節切)」の名手であることを承知していて、所望したというのである。義久は快く了解した。
細川護貞氏の著「細川幽齋」では「然らば所望にまかすべしといって、召しつれた家老・島津下野に、りゅうたつ節という小唄を謡わせ、一重切を吹かれた」と記されている。
大いに座が賑わったことが知れる。これは慶長六年の暮のことだが、この時期この「隆達節」が流行って居り、後には阿国歌舞伎踊歌に受容された。
義久は幽齋から古今伝授を許されている教養人である。
年は一つしか違わないが師弟の豊かな交流があった。義久は翌七年に隠居して龍伯と号した。
そんな義久の一重切に合わせて「隆達節」が披露されたと言うのだから、その内容をのぞき見したいと思うのである。
本屋をのぞこうか、Amazonにしようかと思案している。
付足し:定かな記憶がないが、三斎の養女・御三(細川行孝室)がりゅうたつ節が上手であったという記事を見かけた覚えがあるが、どこに記載されていたのか思い出せな
いでいる。
(寛永三年六月)十八日~廿日
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| 十八日
| (規矩郡)
堤干上リ鮒漁 |一、城野之堤ひ申由ニて、あミ奉行吉内ふなとりニ参候事、
| (と脱)
|一、かち衆山田市左衛門与ノ坂本角兵衛申もの、六月十五日ニ病死仕候、則松本・豊岡所へ申遣候
| 事、
当年中無札ノ鵜遣 |一、当町ノ鵜仕甚左衛門、当春横川へ 殿様御川狩ニ被成御座時、被 召連、其時当年中無札ニ鵜を
免許 | 被成御免候、其御使■村田彦市ニ被 仰付由、其ニ付、彼甚左衛門申候ハ、当御郡中ニハもはや
| (鮎)
当郡限リ | あゆい不申候間、田川へ罷越、無札ニ鵜を遣申度通、村田彦市を以申候、当御郡之外江罷越、仕
| 候儀成間敷由、返事申候事、
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| 十九日
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宇佐宮ヘノ雨請ノ |一、雨請之料足三十貫文、宇佐ゟ請取との切手参候を、阿野新右衛門・林理右衛門ニ相渡候事、
料足請取切手 |
作事ニ通行ノ開門 |一、問太郎介作事仕ニ付、へいつち取よせ、堀口五介預り之御門を」、式ア少殿へ理り申、明入申度
願 | 由、式ア殿ゟ御使ニ付、得其意申由御返事申候事、
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龍虎ノ屏風 |一、利根川道孝ゟ、龍虎ノ御屏風、伊礼采女所へ持せ被遣、使者は枝元九郎兵衛と申仁也、
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| 廿日
| (屋方)中津市本耶馬渓町下屋形
簗場 |一、下毛郡やなうち申所屋形と申在所之由、大竹與三左衛門被申来候事、
| 朝ノ
降雨ノ時分ノ占卜 |一、旱ニ付、いつ時分雨ふり可申哉と、大膳ニうらなわせ申候処ニ、廿三日之四つ時分か、晩ノ六つ
| 時分かニふり可申由、うらなひ申候事、
| 加納
加納曲斎後家遣物 |一、松田五左衛門・味噌屋慶徳登城被仕、被申候ハ、狩野曲斎後家被相果候、就夫、遣物書置ニ被仕
| 〃〃
ノ処分 | 候分ハ、それ/\へ相渡遣可申候哉、其外申残被置候諸道具御座候を、寺へ上ヶ可申哉と被相尋
上り屋敷 | 候、其分一段可然候間、其通ニ可被仕由申渡候、家之儀上ヶ可申之由、被申候間、家ハ被仕舞次
| 第、請取可申由、申渡候事、
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| (松井興長室、三斎女)(豊後速見郡)
松井興長室料米 |一、御こほ殿御米を木付へつミニ遣候御舟罷帰候間、福嶋喜左衛門・藤田弥兵衛ニ可被渡由、申渡候
| 事、
| (眞苧)カラムシ
|一、松や九郎兵衛所ゟ差下候まを一包、黒瀬九郎右衛門ニ相渡候事、
|一、中瀬左太郎殿ゟおくまへ参候状、右同人ニ相渡候事、
| (成定)
坂崎左吉京ニテ走 |一、坂崎道雲ゟ、横田権佐を以被申越候ハ、坂崎左吉京都ニて無所在仕、走申候、就夫、左吉書置な
ル 跡ノ処置 | とも御座候、内々見及候通も御座候ニ付、永良長兵衛・続平右衛門を以、具ニ立 御耳候、然
| 共、別条相替 御諚も無御座候、乍去、左吉知行之儀、重而如何様共可被 仰出候間、其内御代
| 官をも被 仰付可被下候、相渡可申候由、被申越候ニ付、此方ゟ之返事ニハ、上方ゟ如何様共不
| 被 仰下内ハ、請取申儀成申間敷由申候事、 参考:「坂崎家のやっかい者」
| 昨日廿日ニ
|一、桑原主殿与之御鉄炮衆河部少左衛門、〇病死仕候由、小頭野村孫兵衛申来候事、
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