津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(537)寛永七年・日帳(十ニ月廿八日~廿九日)

2021-04-04 09:50:18 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)廿八日~廿九日

         |                                       
         |   廿八日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、修理・兵庫当番也、
落馬二ヨリ年賀欠 |一、岩崎内蔵丞、去ル十九日ニ中津へ御見廻ニ罷出と候て、落馬仕、散々仕合ゆへ、年頭之御礼ニ不
礼届       |  罷出候由、書状を以、被申越候、取次弓削與次右衛門■承届候通、其方ゟ可被申遣候由、與次右
         |  衛門ニ申渡候事、
         |                                 (軒)
呼野金山古町出火 |一、呼野御金山、古町ニ火事出来仕、今月廿七日之夜、百生家数三拾七間余焼申由、春木金太夫被申
         |  候事、
         |                                         (昭知)
         |一、岩崎内蔵丞落馬仕候由ニて、御礼ニ可参上仕ニ候へとも、心得申候てくれ候へとて、三淵内匠殿
         |  ゟ使参候也、
病気年賀欠礼ノ届 |一、後藤善左衛門煩之由ニて、右同人ゟ御使、
         |一、柏木仁右衛門・同少九郎相煩候故、御礼ニも不罷上由、安場仁左衛門火申候也、
羅漢寺作事    |一、羅漢寺御作事前ニ罷成候間、被仰付候へと、長老火申由、河喜多九太夫ニ言伝ニて候也、
         |  (大貞)
大貞御社米ノ取立 |一、おさた御社米、 中津様御領分之御百生衆かり申分、取立不罷成候ニ付、御領分之かし付之分は、
         |  つら付之帳を中津御奉行衆へ差上候事、
         |                         (下毛郡)
惣庄屋御社米借用 |一、同御社米を、御小庄や福島半右衛門借用仕、借状二福嶋村長久寺請判火仕候、左■■候ヘハ、半
ニ長久寺請判ス  |  右衛門相煩果申ニ付、右之米取立之儀、長久寺ゟへさいそく仕候処ニ、百石二およひたる米之儀
         |      〃                〃
         |                                          (式)
惣庄屋死後ノ処置 |  ニて御座候ニ付、何とも可仕様無之由、長久寺火申候、半右エ門せかれ左介と申者ニ跡敷火遣候
         |  へとも、かく一つ之御社米、又は御郡米、御借米之方ニ知行をハかさへおき、物成少茂不遣候ニ
取立方ナシ    |  付、右之米取立可申様無御座候、如何可有御座候哉事、御郡奉行河喜多九太夫被申候也、
         | (長門豊浦郡)
硯ノ代銀     |一、下ノ関大森土佐所ゟ、硯之代銀取ニ参候事、
         |                          (衛則ヵ)
谷主膳邸出火   |一、夜ノ八つ過ニ、東小倉せんはゟ火事出来仕候、火本ハ谷主膳下やしき也、

         |                                       
         |   廿九日  奥村少兵衛 
         |
         |一、修理・助進当番也、
江戸ヨリ飛脚ノ行 |一、江戸ゟ、夜前御鉄炮衆国友半右衛門与宗村孫左衛門・竹内吉兵衛与手嶋角介罷下候、江戸を今月
程        |  八日ニ罷立、大坂へ十九日ニ着、大坂を廿一日ニ出船仕由申候也、
忠利書状三斎宛  |  一、三斎様へ、 殿様ゟ被進之御文箱壱つ、
光尚書状三斎宛  |  一、御六様ゟ、 三斎様へ被進之御文箱壱つ、
三斎江戸留守居ヨ |  一、清田與三右衛門・神戸喜右衛門・町源右衛門ゟ、中津御奉行衆へ之状壱、大文箱壱つ、
リ中津奉行宛   |
宇佐宮西大門作事 |一、宇佐西大門御作事出来仕候由、菅村和泉途上にて、被申候也、
出来       |
         |       (咽 気)
年賀欠礼届    |一、熊谷孫兵衛のとけ相煩申候間、年頭之御礼ニ不罷出候由、書状を以、被申越候事、
         |一、山田市左衛門煩さし発候而、年頭ニ罷出儀不相成由、子息久丞登城候而、被申候事、
         |   (元高)
         |一、氏家志摩殿内根尾左兵衛煩ニ付、年頭之御礼ニ罷出儀不相成由、申来候事、
年賀帳ノ折紙請取 |一、中折帋五帖、御年頭之御礼帳とち申御用ニ、慥請取申候也、
         |                       嶋又左衛門内
         |                           山内十兵衛(花押)

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■徳富蘆花の「水前寺・江津湖紀行」水遊び(一)・1

2021-04-04 08:10:13 | 書籍・読書

徳富蘆花(健次郎)はその著「死の陰に」に、「水遊び」という項を立て、水前寺や江津湖で遊んだ思い出をまとめている。
素朴な熊本の地にも押し寄せる、近代化していく過程に嫌悪感を感じながら、太古から変わらぬ水の清らかさに満足し堪能する様が描かれている。
私にとっても、子供時代を送った場所で重複するなつかしさがある。
紹介されているのは大正二年の熊本の風景である。

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                                                   (一)水遊び・1

         春竹から東北水前寺に向ふ。熊本市は白川を越して南東に発展し、昔竹藪と畑と墓地とで
         寂しかった本庄村邊は、醫學校・薬學校・中學校其他四角い建物が鼻突く様に建てられて
                                                                                                                 ちいぽけ
         居る。それを横目に車を走らして居ると、何處からともなく輕鐵の矮小汽車が現はれて、
         汚ない煤煙を上げつゝ車の行く方へと走つて行く。忌々しくてならぬ。久しぶりに歸つて
         見て熊本の醜くなつて居るに驚く。勿論それは進化の道程ではあらう。然し醜いものは矢
         張醜い。凡そ熊本を醜くゝするものゝ第一は、此輕鐵だ。せめて電車にでもなつたら、熊
         本の外観も少しは見好くなろう。其様な事を思ひつゝ、此いやな道連と前後して到頭水前
              しま
         寺まで來て了ふた。輕鐵の軌道は、無作法にも其門口まで突かけて、砂取の方へ曲つて居
         る。癪に障つて溜らぬ。
                                        めいしゅ
         水前寺は少年時代から青年時代の初にかけて、吾生涯に織り込まれた明珠の様な記念であ
         る。三歳から十八の春まで(内三年は京都に居たが)父母の下に余が住むだ家は、熊本の
         東郊大江村にあつて、水前寺へは半里に過ぎなかつた。其處の芝生や芝山にころがつた小
         學校の運動會(出浮と其頃は云ふた)、其處の泉水に仕掛花火の朱の時雨が降り火のラン
         チユウが亂れ泳いだ出水神社の祭禮、ほとり近い砂取町の餡餅、餡焼、忘れ難い記憶の数
                     なかんずく
         々が此處には預けてある。就中砂を分けてぷく/\と湧き出つる水の美しさは、眼から魂
         に滲み徹つて、余の水の洗禮は此水前寺で受けたと云ふてもよい。熊本に育つた程の者で、
         水前寺を愛せぬ者は一人もあるまい。妻なども六歳の年初めて連れられて來て、「此處に
         泊る」と駄々を捏ねたと云ふて居る。妻の父は非常な自然派で、水美しい砂取に住みたが
         つて、一度は地所まで見に來たが、果さずして熊本の市中に死んだ。武蔵野に住んで居る
         余は、ともすれば此の美しい水を夢みる。
         車を下りて、十九年ぶり此水の園に踏み入る余の心は、一種のときめきを覺えるのである
                          せきしょう みぎわ
         つた。鶴子と先を爭ふて小走りに泉水の石菖の渚に立つた。此處にも其處にもぷく/\と
         湧いて流るゝは、昔ながらの無色透明水晶を欺く美しい水である、然し中島へ渡らうとす
         れば、飛石が傾いたり、沈んだりして居る。中島のあつた大きな石の燈籠も見えぬ。幻滅
         の感は爭はれぬ。
                せま
         北を泉頭にやゝ窄く南を廣く琵琶に象どつた此泉水は、富士を筆頭に東海道うつしの風景
         と清淺の水とすべて東一帶に集めて、西は下に往く程深い水に樹木が蔭うつて居る。我儕
                                           ほそかわだん・男爵細川護全
         は北に折れ、石橋二つ渡って出水神社前を過ぎ、日露戦争の摩天嶺で戦没した細川男の馬
         上の記念銅像を見て、富士の築山下の脚高の土橋を渡る。此邊には昔水中に砂かき寄せて
         緑や紫の色美しい水前寺菜を作つてあつたものだ。富士の裾野を南の方へ歩く。芝生も今
         は白髪まじりの美しくない時節だ。其芝生を踏ませじと歩道に沿ふてはりがねの埒を設け、
            なみがき
         割竹の波籬をしてあるが、道にも芝生にも紙屑や竹の皮が狼藉と散らばつて居る。
                     すさ
         名園の水前寺ーー何という荒み様だらう。

                      

                                 

              蘆花が眺めた細川護全の騎馬像                                熊本軽便鉄道   明治40年12月20日 安已橋 - 水前寺間開業 

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