津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(542)寛永八年・日帳(十月十七日~十八日)

2021-04-09 07:12:21 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年十月)十七日~十八日

         |                                       
         |   十七日  河本瀬兵衛・奥村少兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也、
         |   (延俊)
木下延俊書状ヲ日 |一、木下右衛門様ゟ、御内恒川将監所へ被遣御状、昨日江戸ゟノ御飛脚ニ御言伝被成、下着申ニ付而、
出へ届ク     |   (豊後速見郡)
         |  今日日出へ持せ遣候也、
蔵奉行任命    |一、平野九右衛門儀、当分御蔵奉行ニ申付候、御蔵奉行衆御算用つかへ候て成不申ニ付而、算用仕間、
         |    
         |  御蔵■申ニ付、付申候也、
         |  (国遠)    (沢村吉重)
国遠道倫ノ開無用 |一、道倫開之事、大学殿へ談合仕候処、此段、道倫、七左衛門迄被申置、承届、則、御無用之由、七
         |                                (殿脱)
         |  左衛門を以、申遣候ヘハ、不及是非、開申間敷由、道倫被申由、大学被申候事、

         |                                       
         |   十七日  奥村少兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
         |                   (勝永)
         |一、江戸ゟ、 三斎様へ被進候御飛脚、寺尾左介与小原七右衛門中津へ参、貴田半左衛門ゟノ奉書持
         |  来申候、御返書ハ、中津ゟ御使者被遣候間、それニ被遣由也、
商人筑前ヨリ生姜 |一、筑前ゟ承認壱人、せいがを壱駄付、小倉へ参候処、人留ノ所にて相改候ヘハ、中津郡今井村ノ者
ヲ壱駄持来ル   |  之由申ニ付、人留之御番衆召連参候間、御家老衆へ参、其段申候へと申付候ヘハ、御家老衆ゟ被
今井村ノ物 郡奉 |  仰候ハ、御奉行所ニて様子聞届、埒明候へと被仰ニ付而、則、御郡奉行衆へつれさせ遣候、右馬を
行ニ吟味セシム  |  もせうかども同前ニ遣申候、右馬をひかせ遣候物ハ、御小人之孫市也、
松井邸ニテ家老惣 |一、佐渡殿へ、御年寄衆・大学殿も御立相候て、御談合候間、可参候、被仰越候ニ付而、我々三人も参
奉行等談合ノ様子 |  候、御談合ノ様子如此、
他国米ヲ川口ニテ |  一、毎年二月朔日ゟ、他国ゟノ米川口被成御入候、他国米を入候ヘハ、諸奉公人めいわく仕候、川
留メシ      |    口被成御留可然存候、我々ゟ共存寄候段申候へハ、一段尤ニ候、江戸へ得 御意、急留候へと
         |    被仰候事、       〃
納犬ヲ取逃ス   |  一、弓削與次右衛門百生・佐分利作左衛門百生、納犬を爰元にてとりにかし、追懸出候而、御小人
         |    惣市犬をとらへ、打ころさせ候、惣市申候ハ、御犬をぬすミ申候間とて、市丸作内ニ申、搦、
         |                                 〃
         |    與次右衛門所へ渡候、さ候て、御年寄衆・我々共へも、此段申聞候、先、右ノ百生弐人ハ御郡
百姓入牢     |    之籠ニ入置、今日談合仕候処ニ、御犬にて無之ものを、御犬と申かけ候儀、不届儀候、百生ハ
御犬ニアラス   |    とが無之候間、早々籠出し候へと、被仰せ候事、
放火犯懸賞    |  一、外町ニ、さい/\付火仕ものを見出候ハヽ、御ほうび可被也由、御郡奉行申付候処、見出申候、
         |    此ものニ御ほうび可被成やと申候ヘハ、諸人ノ家、其上主家ニ度々火を付候ニ、ほうひを可遣
ソノ可否     |    と申候て後、見出申候、無念ものニ候間、御ほうひ被遣にてハ有之間敷由、被仰候、さりなか
         |                   (反故)
         |    ら、御郡奉行其分ニ申付たる所、ほうくニ不成ためニ候ハヽ、少御ほうひ被遣可然由、被仰候
         |    事、
寛永六年江戸へ廻 |  一、寛永六年ニ、石舟江戸へ三十艘被成御廻候、此入目銀米割苻、御蔵納へも懸ヶ申候、松ノ丸衆
漕ノ石船三十艘ノ |    申候ハ、御蔵納ゟハ出申間敷由、被申候、江戸にて、公儀ゟ渡り申金小判弐百両、又、お舟を
入目ノ割苻    |    御売せ被成、此分ハ御納戸へ納り申候間、割苻米御蔵納へ懸候分、六百石ハ御蔵納ゟ出可申儀
幕府ヨリ渡ル小判 |    と存候由、我々も申候事、
二百両  蔵納へ |
割苻米六百石   |

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■沼田家記(1)‐延元様玄也公御一代之御儀覚書(一)

2021-04-09 06:45:40 | 沼田家文書

沼田家記と称する数種の文書が上妻博之先生書写の「上妻文庫」に存在する。
80数頁に及ぶものだが、今年初めに読み下しにチャレンジしてみた。私的に留め置くより皆様に楽しんでいただきたいと考えてご紹介することにした。
綿考輯録などでは伺えないことがいろいろ記されており、十分お楽しみいただけると思う。
原本の複写版をお持ちの方は、間違い等にきづかれたらご指摘を賜りたい。

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         延元様玄也公御一代之御儀覚書

    一元亀三年壬申申月日不知京都御誕生   
     字小兵衛後長岡勘解由左衛門延元
    一御父道安様 称沼田勘解由左衛門清延後称道安 御代公方家江被成御近習
     若狭国隈川城主永禄八年 公方 義輝公号光源院殿
     為三好氏御切腹被成候以後 道安様御牢人被成其後丹後へ
     御越
     忠興様ニ御懸り被成中山ニ居城被成候 延元様も同中山ニ
     被成御座候由之事
    一延元様御幼少之時分より御意智荒ク御座候よし御若輩に
     被成御座候刻中山之御城御日待御座候ニ付御城内を際
     濟被仰付御信心被成候處に御夜食之出申候時分御料理
     人衆御意に違申候とて延元様抜打ニ彼者を御成敗被成候
     就夫 道安様御勘當被成向後御對面被成間敷候間
     
     急度御城を御出被成候様にと被仰候 延元様被遊後牢人候
     御覚悟被成候処に早々御出被成候得と御使及再三申候 然処
     坂井金内と申者 坂井武兵衛祖父 二之丸に罷在申候ニ付御袋様ゟ
     延元様御儀 道安様之被損御機嫌唯今御牢人被遊候間
     可然様頼思召候由御使者御座候 依之金内早速罷出
     延元様を奉留則金内所ニ隠置申候 其後御詫言御座候而
     御父子様御中直り御座候其時之御褒美
     延元様ゟ道安様御細工ニ御打被成候御鞍金内に被為
     拝領候由御座候事

    一其後御小姓衆屋根の繕をいたし候迚ひさしの上に上り   
     居申候彼者何とそ慮外を働申候哉延元様ひさしに
     御あがり被成御小姓を御手打ニ被成候 此者脇さしを抜合
     申候 然共深手にて御座候處に村越久右衛門 村越惣右衛門祖父

     其侭屋根へ上り彼者を下タへ突落し久左衛門もとび下り    
     留を指申候 御小姓脇差を持なから落申候 其とき何と
     仕候哉 延元様御額に少し當り其疵之跡後迄
     御座候事
    一延元様丹後に御座候時分ハ後牢人にて被成御座
     忠興様と御従弟ニて御座候に付御威強く御育被成
     候由ニ御座候事
    一文禄元年より高麗陳同六月 忠興様朝鮮江御渡
     海被成候に付 延元様を被成御供高麗江御渡海永井
     惣右衛門・富田少助御供に罷越候 延元様廿一歳之御時なり
    一慶長五年上杦景勝於會津謀反之時節
     権現様會津へ御出陳と申候刻 忠興様之被成御供

     延元様を御立被成候 然所に石田治部少輔関ヶ原表江出張

     に付會津江ハ御出馬無御座候 権現様関ヶ原へ御向被成候   
     日八月廿三日濃州岐阜之城御攻被成候 城主岐阜中納言
     秀信公 秀信公ハ信長公之嫡孫・城之助信忠公之長子也 御先而 忠興様福嶋左衛門太夫
     殿・加藤左馬助殿此御三人芝野にて被成御覧候所に瑞龍
     寺ニ而 延元様鑓を御合被成 延元様ハ瑞龍寺之砦へ
     上下拾二三人にて御上り被成候所に上より勇々敷武者上下
     六拾程にて真黒に成鑓を可仕と訇り坂を下り申候処に
     延元様中々鑓を可参と被仰坂之中程にて槍を御合せ
     暫く御突合被成彼武者を御突被刎候処に下之谷へころ
     び落申候 則谷へ御下り首を御取可被成と被仰候得とも深キ
     谷にて御座候 其上合戦半にて御座候に付其分に

     被成此武者樫江左近と申候中納言殿内にて番頭瑞龍
     寺之大将分にて御座候よし 延元様廿九歳の御時なり

     御家来之者互に太刀打せり合御座候内に敵の大将   
     討死仕候に付敵散々に成申候 此時敵方の袖しるし赤根
     に白き輪違付申候を拾三本其外鉄炮等分捕仕候刻吉

     例の家珍に被成是より武具の御紋輪違を御用被成候由
     永井惣右衛門・富田少助手にあひ両人共手負申候 永井三助
     と申者も其場へ参りかせき申候 御手廻りの者三人御供仕

     参骨折申候者とも御帰陳之上御取立被成御加恩被下後
     々迄御奉公仕候三人ハ永井又三左衛門・田邊市之丞・中村
     弥右衛門

 

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