長崎黒舩一巻之叓 此儀光尚公御代之内 参考:正保四年長崎警備の図
一正保三年ニ長崎へきどう外どう舩可参風聞仕候ニ付
光尚公
肥後守様御上り前に被仰出候は御人数被出筈ニ候ハヽ
米田監物・勘ケ由可被遣候 一組被遣程之儀に候ハヽ勘ケ由
可参候 監物組より藪市正・谷内蔵之允加り可参候 平野
弥次右衛門・同茂左衛門・同四郎左衛門・同作左衛門勘ケ由組ニ入可参候
鶴崎より御舩を呼置勘ケ由組之足軽役人共遠役
等不遣熊本外曲輪内之普請を申付候へと御意にて候
其年は黒舩参不申別条無之候事
一翌四年其前に勘ケ由殿より殘る御老中へ被仰断候は
長崎表之儀去年は舩不参候 當年は参る事も可有
之候 去年御意之通に御手當被仰付可然由寄/\
御催促候得とも何も御聞入無之候間靏崎より御舩も
御呼寄無之勘ケ由殿組之足軽役人等も鶴崎方々へ
遠役へ被遣居申候 然處に六月廿八日に長崎表へ南蛮
舩二艘見へ候由入津之葡萄舩共申候由廿八日之晩方
加勢之御人数被出候得と長崎政所衆より被仰趣ニ付
俄に長岡式ア少殿・明石権太夫殿一同に御出勘ケ由殿
も御出にて被仰候は如此可有之と存度々相届候に何連も
御聞入なく候 監物殿へ貴様先御越之筈にて此勘解由ハ
跡に残り居候ハヽケ様にハ仕間敷と 殿様御身躰にて
隣国之叓ニ二千三千御出し兼延引候而は天下之御外聞
不可然候 先年私儀御相役に被仰付候刻 殿様御意被成
候は存寄之叓候共大方の儀ハ多分に付候へと被仰付候
に付何事も不言候て聞入居候得共伯父子の或ハ家老之子
のとて御脇の■なる仕合にて何角有之か若き
殿様を家老奉行として欺シ申候 我等は罷越打死
仕候 御横目衆御為を被候ハヽ此一々可申上候跡々之御為
と存数年之鬱憤不残申置候 唯今相果て候而も存残
す叓無之早参候と御立候得は式部殿玄関まで御老
中不残御送り出御暇乞にて候 監物殿被仰候ハ一向に打死
を可被仕候 扨も惜敷叓殺したむなき仁と涙を御流し候由
金ノ間を近来唱
扨火ともし候時分に御帰り候 御組中は杢之間座敷に御寄合
候處に御帰り候て右之一々御語り早何も被帰候而随分
急き御打立候得と追参在々ゟ人数参候を御待受夜
五ツ時分に熊本を御打立沢村宇右衛門殿御壱人壱丁目
勢屯迄御出迎暇乞蓮臺寺の渡り中程にて向之塘に
松明熊本之方へ急き候を御覧候て川尻ゟ之注進に出迎
承り候へと御申佐伯宇右衛門と申手廻りの頭走向ひ承り候に
飛脚ノ者申候は勘解由様へ興津作左衛門殿ゟ之状を持参仕候
と申候に付宇右衛門請取上申候川中にて灯烑を寄御覧
候に御舩拵出来仕候間御急き被成候得と申来候付夫ゟ
壱人御馬を早メられ御急き候 夜の内に河尻へ御着町口ゟ
直に御舩可召候間乗舩之居所を見て参候さまにと見せに被遣候
舩場御舩一艘も見へ不申候に付立帰り其段申上候處ニ御舩
も乗申候御舩頭苗字は失念八左衛門と申仁紺之帷子
葉大根ちらしたるを着いたし私は御召舩に乗申候
御船頭何之八左衛門と名乗申候 直に御乗有之候間御
先へ乗り候へと被仰候 御茶屋之前になり申候間川向ひを
御覧候得は松明万燈之如くにて御舩おろし申候が御召
舩はどれがにて候やと御尋八左衛門申候は只今向に御誘し
申候が御召舩にて御座候と申候に付以之外立腹にて
御茶屋に御入り候玄関前まて興津作太夫殿御出迎存之外
早く御越被成候と被申上候得ハ舩拵出来之左右急き
参候様にと注進被申候 直に可乗候間舩は何連にて
候やと御申候得ハ作太夫殿返答不成候 そこにて勘ケ
由殿刀を被押直扨々作太夫不届に候不出来之舩を出来
候と被申注進被仕たるハ我等に難を付か申ため舩拵ハ
出来被急候へと注進申候得とも勘ケ由速ク参り候と
可申ため僞を被申越候 勘ケ由ハ早く参候得とも作太夫
油断にて舩拵不出来仕合故勘ケ由は御茶屋ニ大■を ■寝か
仕居り候と言上いたし切腹すへき由御叱候て夫より御
引籠り御しん成候 其後御用事候得共作太夫殿直に
御出夫被成候間取次を以被仰達仕合御舩拵暁迄漸々
五ツ過ぎニ出来候間勘ケ由殿召舩四拾六町・御嫡沼田三左衛門
殿御舩四拾弐丁結舩四拾弐丁余米横目明石現左衛門殿舩
四拾弐丁此四艘漸々出来合二十町小早其外ハ小早共
にて出舩被仕候叓
但南蛮船可参哉と風説御座候へつるハ正保二年
之由御座候泉水之間に御具足櫃なと出居申候由
然とも参り不申候 其年之十二月於八代 三斎様被遊
御卒去勘解由殿八代江明ル秋まて御座候得共三年に
何之物音も無御座年々過正保四年六月廿八日
唐舩参り候由申来候 且又此出舩之刻丹羽龜
之允殿より川尻御茶屋ニて暇乞之使者参り
龜之允殿拝領之九曜御紋附御帷子二ツ御紋付
肩衣斗熨斗を添追付御帰陳可被成よし