津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■子供らの水浴びと小堀邸跡

2021-04-15 13:50:17 | 徒然

            

 昨日返却が遅れた本を返しに県立図書館に出かけて、この辺りを散策した。
下の写真の右手、地図ではマークした場所の下(北側)に「ぞうさん滑り台」がある水深がひざ丈程の天然プール(水場)があり、夏になると子供たちの嬌声が聞こえる。
昨日はここに遊ぶ人はいなかったが、左手の川の中で、小学生の高学年らしい男女六七人が泳いで居るのにびっくりしてしまった。
昨日は気温も20度にはなっていなかったのではないか?。この場所はまさに私が子供のころ遊んでいた場所そのものである。
子供は元気だ。水着というわけでもないが、裸で泳いで居る猛者も居る。
証拠写真を撮ろうかと思ったが、いろいろうるさいご時世だからこれは控えることにした。
通りがかったご婦人が「見たばかりで震え上がる」と言っておられたが・・同感。

 上の地図にマークした場所を南から写しているが下の写真で、林の中がかっての細川家家臣・小堀家の屋敷跡である。
母方の祖母の実父の兄弟のほとんどが透水術・小堀流の師範を勤めていた。
このとんでもないでかい屋敷に祖母の従姉妹たちが住んで居たので、幼いころ二三度あそびに出かけたことを覚えている。
屋敷の北側に溶岩流の谷間が有り、ここから綺麗な湧き水が流れ出ていて、川舟がもやってあった。
写真でもわかるように西側には、樹々がうっそうとしているが、相当な年代物である。
そして、私が水遊びに興じた場所の東の崖上がこの小堀の屋敷であるが、子供のころは全く気付かなかった。

 現在体育館がある当りに、かって日本一といわれた酒精(アルコール)工場があって、その排水で江津湖の一部はドロドロになってしまったが、大正二年に此の江津湖で遊んだ徳富蘆花もその現実に遭遇して眉をしかめている。
排水の落し口が何処であったのか、私はよく理解していない。少なくとも私が遊んでいた場所は、いつもきれいな水であった。
幼いころの思い出は、誠にかけがえない物であり、この豊かな自然の恵みが壊されることなく未来につながってほしいと思う。

               

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■細川小倉藩(547)寛永八年・日帳(閏十月朔日~三日)

2021-04-15 08:33:11 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年閏十月)朔日~三日

         |                                       
         |   朔日  加来二郎兵衛・奥村少兵衛
         |
         |一、助進・修理当番也、
         |一、安場仁左衛門尉、知行所ゟ罷帰候由ニ而、登城仕候事、
親ノ見舞ヨリ帰国 |一、かちの御小性伴次兵衛、肥後へ親見舞ニ参、罷帰由ニ而、登城被仕候事、
蔵子ノ詮議    |一、御蔵子弥市と申もの、御せんさくの儀ニ付而、御惣庄や城野五郎左衛門書物持参候を、請取置申
         |  候事
         |  (波多)
国遠道倫溜池ノ内 |一、中庵ゟ、入江勘三郎を以被申候ハ、国遠道倫開之儀、此中承及候、道倫御城ニも久敷被詰居、万
ヲ開キ放置ス   |  事之儀合点参筈候処、御ため池ノ内なと開申たると候て、打すて申儀、世間之ひはんもめいわく
作付ケセシメン  |                         大学殿なと
         |  なる儀候、存寄申躰にか/\敷仕合ニ候間、今一度、御談合候而、右開之内、少成共、作仕候様
         |  ニ、被仰付間敷候哉と、被申候間、談合可申由、返事申候事、        

         |                                       
         |   二日  奥村少兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也、
         |一、永良長兵衛銀子之切手有之書状、今日罷上候御船頭中靏仁左衛門ニ渡、上せ候事、
疊奉行へ表替ヲ延 |一、吉田源七郎をよび、申渡候ハ、御畳ノ表かへ、先被仕間敷候、御下国之御さたも候ハヽ、其時之
期セシム     |  儀ニ可仕候間、可被得其意由、申渡候事、
府内横目へ進物ノ |一、真玉半右衛門、苻内御横め衆へ御進物ノ使者ニ被遣、被罷帰候、御音信物請取候との裏書有之書
使者帰ル     |  付、弐枚持参被申候事、
請取ノ裏書    |

         |                                       
         |   三日  加来二郎兵衛・奥村少兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
彦山座主ヘノ申渡 |一、彦山座主へ被仰渡儀候間、我等共参人も、めし過ニ、監物殿へ参可申候、佐渡殿も被成御出候間、
ノ惣談      |  可参由、佐渡殿ゟ御使者被下候、畏存由、御返事申候事、
田川ニテ捉リシ鮭 |一、柏木二右衛門所ゟ、主小者田川ノ川にて鮭壱尺取候而間、上ヶ申由にて、書状相添、被持上候、
ヲ上グ      |  則、御台所へ渡候事、
山本村ニテ百性鮭 |一、規矩郡山本村にて、鮭壱尺取申由に而、神足三郎左衛門持被上候、朝山斎百性源二郎・三四郎と
ヲ捉リ上グ    |  申者取申由也、                                  (山本)
烏ノ蹴落セル鳩ヲ |一、池上加兵衛預り之御門ノわきにて、鳩壱つ、からすけおとし申由ニ而、持被上候、則、御鷹師二
鷹師へ渡ス    |  介所へ遣、

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■沼田家記2・延之様御一代諸事御勤一帳(ニ)

2021-04-15 06:22:07 | 沼田家文書

            長崎黒舩一巻之叓 此儀光尚公御代之内      参考:正保四年長崎警備の図 


          一正保三年ニ長崎へきどう外どう舩可参風聞仕候ニ付
           光尚公
           肥後守様御上り前に被仰出候は御人数被出筈ニ候ハヽ
           米田監物・勘ケ由可被遣候 一組被遣程之儀に候ハヽ勘ケ由
           可参候 監物組より藪市正・谷内蔵之允加り可参候 平野
           弥次右衛門・同茂左衛門・同四郎左衛門・同作左衛門勘ケ由組ニ入可参候
           鶴崎より御舩を呼置勘ケ由組之足軽役人共遠役
           等不遣熊本外曲輪内之普請を申付候へと御意にて候

           其年は黒舩参不申別条無之候事
          一翌四年其前に勘ケ由殿より殘る御老中へ被仰断候は
           長崎表之儀去年は舩不参候 當年は参る事も可有
           之候 去年御意之通に御手當被仰付可然由寄/\
           御催促候得とも何も御聞入無之候間靏崎より御舩も
           御呼寄無之勘ケ由殿組之足軽役人等も鶴崎方々へ
           遠役へ被遣居申候 然處に六月廿八日に長崎表へ南蛮
           舩二艘見へ候由入津之葡萄舩共申候由廿八日之晩方
           加勢之御人数被出候得と長崎政所衆より被仰趣ニ付
           俄に長岡式ア少殿・明石権太夫殿一同に御出勘ケ由殿
           も御出にて被仰候は如此可有之と存度々相届候に何連も
           御聞入なく候 監物殿へ貴様先御越之筈にて此勘解由ハ

           跡に残り居候ハヽケ様にハ仕間敷と 殿様御身躰にて
           隣国之叓ニ二千三千御出し兼延引候而は天下之御外聞
           不可然候 先年私儀御相役に被仰付候刻 殿様御意被成
           候は存寄之叓候共大方の儀ハ多分に付候へと被仰付候
           に付何事も不言候て聞入居候得共伯父子の或ハ家老之子
           のとて御脇の■なる仕合にて何角有之か若き
           殿様を家老奉行として欺シ申候 我等は罷越打死
           仕候 御横目衆御為を被候ハヽ此一々可申上候跡々之御為
           と存数年之鬱憤不残申置候 唯今相果て候而も存残
           す叓無之早参候と御立候得は式部殿玄関まで御老
           中不残御送り出御暇乞にて候 監物殿被仰候ハ一向に打死
           を可被仕候 扨も惜敷叓殺したむなき仁と涙を御流し候由
           金ノ間を近来唱
           扨火ともし候時分に御帰り候 御組中は杢之間座敷に御寄合

           候處に御帰り候て右之一々御語り早何も被帰候而随分
           急き御打立候得と追参在々ゟ人数参候を御待受夜
           五ツ時分に熊本を御打立沢村宇右衛門殿御壱人壱丁目
           勢屯迄御出迎暇乞蓮臺寺の渡り中程にて向之塘に
           松明熊本之方へ急き候を御覧候て川尻ゟ之注進に出迎
           承り候へと御申佐伯宇右衛門と申手廻りの頭走向ひ承り候に
           飛脚ノ者申候は勘解由様へ興津作左衛門殿ゟ之状を持参仕候
           と申候に付宇右衛門請取上申候川中にて灯烑を寄御覧
           候に御舩拵出来仕候間御急き被成候得と申来候付夫ゟ
           壱人御馬を早メられ御急き候 夜の内に河尻へ御着町口ゟ
           直に御舩可召候間乗舩之居所を見て参候さまにと見せに被遣候
           舩場御舩一艘も見へ不申候に付立帰り其段申上候處ニ御舩
           も乗申候御舩頭苗字は失念八左衛門と申仁紺之帷子

           葉大根ちらしたるを着いたし私は御召舩に乗申候
           御船頭何之八左衛門と名乗申候 直に御乗有之候間御
           先へ乗り候へと被仰候 御茶屋之前になり申候間川向ひを
           御覧候得は松明万燈之如くにて御舩おろし申候が御召
           舩はどれがにて候やと御尋八左衛門申候は只今向に御誘し
           申候が御召舩にて御座候と申候に付以之外立腹にて
           御茶屋に御入り候玄関前まて興津作太夫殿御出迎存之外
           早く御越被成候と被申上候得ハ舩拵出来之左右急き
           参候様にと注進被申候 直に可乗候間舩は何連にて
           候やと御申候得ハ作太夫殿返答不成候 そこにて勘ケ
           由殿刀を被押直扨々作太夫不届に候不出来之舩を出来
           候と被申注進被仕たるハ我等に難を付か申ため舩拵ハ
           出来被急候へと注進申候得とも勘ケ由速ク参り候と

           可申ため僞を被申越候 勘ケ由ハ早く参候得とも作太夫
           油断にて舩拵不出来仕合故勘ケ由は御茶屋ニ大■を      ■寝か
           仕居り候と言上いたし切腹すへき由御叱候て夫より御
           引籠り御しん成候 其後御用事候得共作太夫殿直に
           御出夫被成候間取次を以被仰達仕合御舩拵暁迄漸々
           五ツ過ぎニ出来候間勘ケ由殿召舩四拾六町・御嫡沼田三左衛門
           殿御舩四拾弐丁結舩四拾弐丁余米横目明石現左衛門殿舩
           四拾弐丁此四艘漸々出来合二十町小早其外ハ小早共
           にて出舩被仕候叓
           但南蛮船可参哉と風説御座候へつるハ正保二年
           之由御座候泉水之間に御具足櫃なと出居申候由
           然とも参り不申候 其年之十二月於八代 三斎様被遊
           御卒去勘解由殿八代江明ル秋まて御座候得共三年に

           何之物音も無御座年々過正保四年六月廿八日
           唐舩参り候由申来候 且又此出舩之刻丹羽龜
           之允殿より川尻御茶屋ニて暇乞之使者参り
           龜之允殿拝領之九曜御紋附御帷子二ツ御紋付
           肩衣斗熨斗を添追付御帰陳可被成よし
           

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