津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一勝と一礼

2021-04-13 15:13:01 | 徒然

 マスターズゴルフでの松山英樹の優勝は、前日のスコアから優勝はほぼ間違いなかろうと、最終日はTVの前に座り込んだ。
終盤ハラハラドキドキの展開とはなったが、見事な初優勝、感極まったアナウンサーの声にこちらもぐっとするものがあった。
そんな中で、キャディーさんがフラッグを外してポールをホールに戻し、頭を下げて感謝の意を表したことが、また、観衆やTV観戦の多くの人たちの心を打った。
なかなかできないことだ。

 若いころ松山はラウンド中、他の選手からマナーについて指摘をうけたりしていた。丸山茂樹プロからもお叱りを受けた過去がある。
それはまさに過去の話であって、風格さえも備わってきたように思える。

かって、マスターズで四位になった丸山晋吾プロが、アマプロ大会でのらしからぬ行為が大非難となったことが有る。
かれの名声に消すことができない大きな傷を、自らつけた。

 多くの素晴らしい選手たちの名声は、その技術や成績ばかりではなく、マナーや行いを普段の行いとしなければならない。
松山プロも丸山プロの教えを見事に自らのものにした。
そして多くの人が感動を受けたプロの優勝に、これまたプロの「キャディーさんの一礼」が加えられ、日本人の礼儀正しさが世界の注目を浴びた。
27歳の若者のこの行為が当たり前の事として現れることに、まだまだ日本の未来は捨てたものではないと爺様は感動している。

うち続く災害やコロナ禍の中、感動を与えてくれた「一勝と一礼」に感謝したい。

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■細川小倉藩(545)寛永八年・日帳(十月廿四日~廿七日)

2021-04-13 09:41:01 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年十月)廿四日~廿七日

         |                                       
         |   廿四日  奥村少兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、兵庫・修理当番也、
江戸大廻リニ台所 |一、御船頭吉田市左衛門尉、江戸大廻りニ参候、何にても、御台所道具御つませ可被成由申、登城仕
道具ヲ積ム    |  候事、
鉄炮足軽江戸ニテ |一、国友半右衛門与小頭九右衛門登城にて申候ハ、半右衛門与安東市右衛門、江戸にて、九月十一
病死届      |  日ニ病死仕由、申来候間、其分ニ心得候へと申候事、
         |一、昨日中津へ遣候御飛脚、井門亀右衛門与尾崎長兵衛、 三斎様ゟ、殿様へ之御返書之御文箱壱つ、
三斎中津ニテ召舟 |   (貴田)  
ノ建造ヲ命ズ   |  幷半左衛門所ゟ、我等共ヘ之返事持参候、中津にて御召舟被仰付候ニ付、此地御舟大工弐拾六人
小倉舟大工二六人 |  可差越由、半左衛門ゟ申来候間、則、和田伝兵衛方へ申渡候事、
ノ用       |           

         |                 ママ                                       
         |   廿五日  加来二郎兵衛・奥村勝兵衛
         |
         |一、助進・修理当番也、
         | (松井興長)
幕府横目交替期故 |一、佐渡殿ゟ御使被上、苻内御横目衆御替り時分ニ候間、兼日ニ御音信物調置候て可然候、たち付を
音信物用意ノ命  |  二つほとつゝ、其外ハ巻物之類可然候、御巻物当地ニ無之候ハヽ、前かとニ、長崎へも可申遣由、
裁着袴巻物    |           被遣候                          (ニ脱)
         |  被仰越候、又、今日之御横目衆へ之御音信物共、殊外念入候故、結構調申候由、被仰越候事、
         |           〃
         |
玄猪ノ使者    |一、去ル廿三日、いのこのお祝儀之御使ニ、のミ一郎兵衛中津へ被遣、御祝儀之物、則、納り、三
         |  斎様ゟ御書参候を、さいれう野田少介ニ持せ、一郎兵衛ゟさし越申候、幷ニ貴田半左衛門ゟ、御
         |                 (雲嶽霊圭)     (小笠原長元)
雲嶽霊圭ヨリ御所 |  進物請取候との切手を参候、又、圭長老ゟ、佐渡殿・備前殿へ御所柿壱籠つゝ、中津への便ニ参
柿        |  候て有之を、一郎兵衛所ゟ、戻り使ニ被越候間、則、相届候事、

         |                                       
         |   廿六日  奥村少兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、修理・兵庫当番也、                         (扌に勾=抱)
花畠手伝死跡   |一、小堀長左衛門登城にて申候ハ、主手伝ニ被為付置候與左衛門尉病死仕候、替を■可申候や、又、
         |  上り人を可被下哉と申候事、
松井家加子筑前へ |一、佐渡殿加子作蔵と申者、筑前へ走候由にて、尾藤新介召連参候、則、佐渡殿へめしつれ参、渡候
走ルヲ渡ス    |  由申候事、
加子盗ミ走リシ故 |一、佐渡殿ゟ、中山助右衛門を以、被仰聞候ハ、只今、私加子筑前へ走候をとらへ、人留御番召連参
成敗セム     |  候、盗を仕、走申候ものにて候間、成敗可仕と存候間、其分ニ心得候へと、被仰聞候、ともかく
         |  も御分別次第ニ候由、御返事申候事、
長崎買物奉行急ギ |一、長崎ゟ、飛脚参候、御銀急下候へと、申来候事、
銀ヲ乞ウ     |
眼鏡林隠岐へ長崎 |一、長崎ゟ、林おき所へ目かね壱つ参候、玄徳を以、おき方へ遣わ候事、

         |                                       
         |   廿七日  加来二郎兵衛・奥村少兵衛・
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
明寰中津ヨリ帰ル |一、明寰、中津ゟ、昨日罷帰候由にて、登城仕候事、
         |一、長崎ゟ、昨日参候御飛脚御昇之喜兵衛、今日長崎へ、又、差遣候、佐渡殿ゟノ御文箱、しふかミ
         |  包状共一からけ、又、御奉行所ゟ、安井太右衛門・町市丞方へ被遣あまかミ包ノ御文壱からけ、
飛脚請取     |  中ニ銀子有之を慥請取申候、               御昇之喜兵衛〇(黒印)
         |        (吉重)(坂崎成政)
         |  右之銀ハ、沢村大学殿・坂清左殿・真鍋小左衛門ゟノ銀也、

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■沼田家記(1)‐延元様玄也公御一代之御儀覚書(四・了)

2021-04-13 06:52:40 | 沼田家文書

                                             延元様玄也公御一代之御儀覚書(四)
          
評議に不参     一延元様一比大備之頭被仰付御裁判被成候中に 忠興様御
           在国之時分筑前と御出入御座候而御城江御家老中御
           備頭中其外歴々被召集御評儀御座候節御老中御出候
           御座敷へ 延元様も御はいり被成候様にと御意御座候江共
           延元様一切御請不被成御様体にて其間江も御入不被成候 就夫
           被成御意候は惣而勘解由が我等申候儀は氣に不相と相見

           申候 心安不被存何ともすまぬ人にて候 向後何事も不頼候と    
           御意に御座候由之事
備頭を断る     一其後 延元様御組御断被仰上候趣は私儀不調法に御座候て
           組の裁判仕候儀致めいわく候間私組を長岡右馬助ニ御願
           可被下候 私儀も右馬助組に罷在り談合指引きは可仕との
           儀に御座候 此御断り如何可有御座哉と及異儀申候得
           とも 忠興様何事も御頼被成間敷と被仰候上は御六ケ
           式儀御さいばん被成訳にて無御座と御中被成御組被差上
           延元様を右馬助殿組に被成御座候叓
延元すねる     一忠興様御念比に御座候江共 延元様ハ何とそ被思召候
           御内存も御座候哉御一代 忠興様へ御す祢被成在故君
           臣之御中不可然よし御座候 されとも 忠興様御儀頼
           にても諫にも不被仰御崇敬はッ結構成儀にて御座候

           よしの事       
           光尚様御代正保二年之比 延元様八代之御仕置に
           被成御座候節熊川之上だんと申所へ川狩に御出被成
           候刻八代之御侍衆も御同道にて御座候 衣笠平兵衛
           殿被申出候は肥後へ御入国之後 三斎様京吉田より
           初而八代へ被遊御入城候刻小倉道中被成候時門司江被寄
           御舩古城御順見被成右之備共被仰出此城を願置候
           大名に被成あの水の手を本丸へ取込候程之身体に可被
           仰付と被思召時分を御伺被成候得共生得異風仁ニ而終に
           左様に被仰付時節も無之御志も空成候由御意候旨
           御物語にて御座候事
大坂城普請場での  一同五年大坂始之御普請 延元様も御登り被成御普請
喧嘩仲裁       中御勤労被遊候 大頭衆長岡佐渡殿・有吉頼母殿・長岡

           右馬助殿・牧左馬允殿尤 延元様を右馬助殿組に被成              
           御入御登り被成候 此御普請之刻 忠興様数ケ条之御
           掟出申候内九州衆之内若喧嘩出入りなと御座候刻は御一門
           中之儀は不及申嶋津殿・加藤肥後殿なとハ見頃か申又
           関東衆と九州衆喧嘩御座候ハヽ黒田甲斐守殿御中悪
           敷候共筑前江見頃可申旨被仰渡由に御座候 然處に

           或とき加藤肥後殿家中と黒田甲斐守殿衆と於御普
           請場喧嘩仕出騒動いたし候節 延元様ハ御小屋に被成
           御座候時分にて右之様子被成御聞弓鑓之矢具御持せ
           被成大勢被召連早速御普請場へ御出肥後殿方に被成
           御座候 何も杖棒にて御座候処 延元様武具を御持せ
           御出被成候に付様子相見へ申候其刻
           公儀御普請御奉行衆も楼の御紋に御座候而 延元様御出

           被成候を御見届け喧嘩之時荷擔ハ 公儀御法度候処に■之
           衆にて候哉と被仰候得共 延元様一段御尤に奉存候 何之

           家中衆にて候哉御法度を被背候と御鑓横に被成御下知
           被遊候振に御もてなし無前条御普請場へ御通り被成候
           されとも喧嘩無事に相済申候 其後御普請場御奉行衆
           より佐渡殿・頼母殿御呼被成今日於御普請場喧嘩之
           刻越中殿衆と相見へケ様之容躰之仁 公儀御法度之
           儀を被相背候其後石之上に被上杖をつかれて威儀事々
           敷様子にて被居候何と申仁にて候哉と御尋に付御両人
           ご迷惑被成佐渡殿被申候ハ長岡勘解由と申 越中守不遁
           ものにて門司之城に召置申候 惣して氣張に御座
           候て 越中守申付候儀も氣に相不申候得ハ不承候
           様成る生得之者に御座候 何とも迷惑仕候由被仰分候

           得は御奉行衆も如何様勘ケ由殿にて可有之と存候        
           常之仁体とハ見へ不申候由被仰何之相替儀も無御座
           其分にて御座之由申候事
           此喧嘩之刻 延元様見事成御作法に付而肥後殿
           家中衆致太慶 延元様を称美仕頼母敷存其後何事
           も御家中と申合せ一味之ことくに御座候由其刻
           木村宗賀も先代飯田覺兵衛致供大坂に罷立
           肥後殿家中之取沙汰承り候よしに御座候
延元逝去の事    一寛永元年 忠利様御代ニ番目之大坂御普請御
           座候 此時分より 延元様少々被成御煩なり 然とも
           為御養生御登り被成御氣色も能御座候 されとも
           御氣色■と御座候に付御上京被成相国寺之脇寺

           を御借被成御養生被成候 通仙院馿庵御薬被差上其後   
           大醫衆被成御服用候 延元様も従 公儀被進御■御上京
           被成様々御療治に御座候得とも終に御快氣無御座
           同年八月十三日に御遠行被成候 御年五十三相国寺門
           前にて御葬り被成相国寺之峯長老引導奉号
           永源院殿道号ハ鉄山玄也大居士相国寺守家林光院
           に御頼御石塔等今有之
           林光院は御先祖より之お寺にて玄也様御一門
           中様も御住持被成候儀も御座候由申候左様之故に御座
           候哉林光院住持替り申候時は 延元様御代に

           也候而も被伺之後住定まり申候 肥後へ御越被遊候以後
                本ノママ脱字か
           之儀も絶申候由と御座候
          一孝子 延元様高野山普賢院にも御位牌安置に罷

           成月々御茶湯怠慢無御座様に御追善被成候     
           真光寺御位牌御石塔御座候を承應之比肥後へ
           御引取被成安国寺得被成安置候事

             以上
           寛文十二年九月日

           右沼田家記之内延元様玄也公御一代之御儀覚書一篇十弐葉
           宮村氏雑撰録牧弐拾七所載也(上妻博之氏写)

 

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