延元様玄也公御一代之御儀覚書(四)
評議に不参 一延元様一比大備之頭被仰付御裁判被成候中に 忠興様御
在国之時分筑前と御出入御座候而御城江御家老中御
備頭中其外歴々被召集御評儀御座候節御老中御出候
御座敷へ 延元様も御はいり被成候様にと御意御座候江共
延元様一切御請不被成御様体にて其間江も御入不被成候 就夫
被成御意候は惣而勘解由が我等申候儀は氣に不相と相見
申候 心安不被存何ともすまぬ人にて候 向後何事も不頼候と
御意に御座候由之事
備頭を断る 一其後 延元様御組御断被仰上候趣は私儀不調法に御座候て
組の裁判仕候儀致めいわく候間私組を長岡右馬助ニ御願
可被下候 私儀も右馬助組に罷在り談合指引きは可仕との
儀に御座候 此御断り如何可有御座哉と及異儀申候得
とも 忠興様何事も御頼被成間敷と被仰候上は御六ケ
式儀御さいばん被成訳にて無御座と御中被成御組被差上
延元様を右馬助殿組に被成御座候叓
延元すねる 一忠興様御念比に御座候江共 延元様ハ何とそ被思召候
御内存も御座候哉御一代 忠興様へ御す祢被成在故君
臣之御中不可然よし御座候 されとも 忠興様御儀頼
にても諫にも不被仰御崇敬はッ結構成儀にて御座候
よしの事
光尚様御代正保二年之比 延元様八代之御仕置に
被成御座候節熊川之上だんと申所へ川狩に御出被成
候刻八代之御侍衆も御同道にて御座候 衣笠平兵衛
殿被申出候は肥後へ御入国之後 三斎様京吉田より
初而八代へ被遊御入城候刻小倉道中被成候時門司江被寄
御舩古城御順見被成右之備共被仰出此城を願置候
大名に被成あの水の手を本丸へ取込候程之身体に可被
仰付と被思召時分を御伺被成候得共生得異風仁ニ而終に
左様に被仰付時節も無之御志も空成候由御意候旨
御物語にて御座候事
大坂城普請場での 一同五年大坂始之御普請 延元様も御登り被成御普請
喧嘩仲裁 中御勤労被遊候 大頭衆長岡佐渡殿・有吉頼母殿・長岡
右馬助殿・牧左馬允殿尤 延元様を右馬助殿組に被成
御入御登り被成候 此御普請之刻 忠興様数ケ条之御
掟出申候内九州衆之内若喧嘩出入りなと御座候刻は御一門
中之儀は不及申嶋津殿・加藤肥後殿なとハ見頃か申又
関東衆と九州衆喧嘩御座候ハヽ黒田甲斐守殿御中悪
敷候共筑前江見頃可申旨被仰渡由に御座候 然處に
或とき加藤肥後殿家中と黒田甲斐守殿衆と於御普
請場喧嘩仕出騒動いたし候節 延元様ハ御小屋に被成
御座候時分にて右之様子被成御聞弓鑓之矢具御持せ
被成大勢被召連早速御普請場へ御出肥後殿方に被成
御座候 何も杖棒にて御座候処 延元様武具を御持せ
御出被成候に付様子相見へ申候其刻
公儀御普請御奉行衆も楼の御紋に御座候而 延元様御出
被成候を御見届け喧嘩之時荷擔ハ 公儀御法度候処に■之
衆にて候哉と被仰候得共 延元様一段御尤に奉存候 何之
家中衆にて候哉御法度を被背候と御鑓横に被成御下知
被遊候振に御もてなし無前条御普請場へ御通り被成候
されとも喧嘩無事に相済申候 其後御普請場御奉行衆
より佐渡殿・頼母殿御呼被成今日於御普請場喧嘩之
刻越中殿衆と相見へケ様之容躰之仁 公儀御法度之
儀を被相背候其後石之上に被上杖をつかれて威儀事々
敷様子にて被居候何と申仁にて候哉と御尋に付御両人
ご迷惑被成佐渡殿被申候ハ長岡勘解由と申 越中守不遁
ものにて門司之城に召置申候 惣して氣張に御座
候て 越中守申付候儀も氣に相不申候得ハ不承候
様成る生得之者に御座候 何とも迷惑仕候由被仰分候
得は御奉行衆も如何様勘ケ由殿にて可有之と存候
常之仁体とハ見へ不申候由被仰何之相替儀も無御座
其分にて御座之由申候事
此喧嘩之刻 延元様見事成御作法に付而肥後殿
家中衆致太慶 延元様を称美仕頼母敷存其後何事
も御家中と申合せ一味之ことくに御座候由其刻
木村宗賀も先代飯田覺兵衛致供大坂に罷立
肥後殿家中之取沙汰承り候よしに御座候
延元逝去の事 一寛永元年 忠利様御代ニ番目之大坂御普請御
座候 此時分より 延元様少々被成御煩なり 然とも
為御養生御登り被成御氣色も能御座候 されとも
御氣色■と御座候に付御上京被成相国寺之脇寺
を御借被成御養生被成候 通仙院馿庵御薬被差上其後
大醫衆被成御服用候 延元様も従 公儀被進御■御上京
被成様々御療治に御座候得とも終に御快氣無御座
同年八月十三日に御遠行被成候 御年五十三相国寺門
前にて御葬り被成相国寺之峯長老引導奉号
永源院殿道号ハ鉄山玄也大居士相国寺守家林光院
に御頼御石塔等今有之
林光院は御先祖より之お寺にて玄也様御一門
中様も御住持被成候儀も御座候由申候左様之故に御座
候哉林光院住持替り申候時は 延元様御代に
也候而も被伺之後住定まり申候 肥後へ御越被遊候以後
本ノママ脱字か
之儀も絶申候由と御座候
一孝子 延元様高野山普賢院にも御位牌安置に罷
成月々御茶湯怠慢無御座様に御追善被成候
真光寺御位牌御石塔御座候を承應之比肥後へ
御引取被成安国寺得被成安置候事
以上
寛文十二年九月日
右沼田家記之内延元様玄也公御一代之御儀覚書一篇十弐葉
宮村氏雑撰録牧弐拾七所載也(上妻博之氏写)