「青空文庫」で徳富蘆花の「みみずのたはごと」を読み始めた。重版を重ねた名随筆集である。
その二題目の「都落ちの手帳・千歳村から」をよみはじめて、その「二」であれっと思わせる文章に出くわした。
「家を有つなら草葺の家、而して一反でも可、己が自由になる土を有ちたい」という書き出しで、少年時代を過ごした熊本大江村の家のことに触れている。
そしてそろそろ咲き始めるその旧居である「徳富蘇峰記念館」のカタルパの花についての記述があった。
現在では、蘇峰が新島襄から種を譲り受けて植えたとされており、私もずっとそういう認識でいたが、この文章を読むとなんだかこの説が怪しくなってくる。
「父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗など標本的に試作した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時菓樹は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵をつけて歩いたこともあった。」
つまり、蘆花の父・徳富一敬が津田仙(津田梅子の父)の学農社からここに記されている樹木を仕入れていたというのである。屋敷の梨の樹の記述などからすると、カタルパもここに植えられた可能性がある。
そうなると蘇峰と新島襄の絆として植えられたという話は、「作り話」ということになるが如何だろう。
いろいろググっていたら、やはり同志社関係の永井康博氏の特別寄稿「同志社の完成は三百年‐新島襄と津田仙」という論考に出くわした。
永井氏はまさにこのことに触れられているが、蘇峰先生の言がいよいよ怪しく思える。
GW頃にはカタルパの花は見頃ではないのか、自転車を漕いで拝見に出かけてみようか。
「蘇峰先生、真実は如何に」とお聞きしたい。