津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■徳富蘆花「みみずのたはごと」から・・・

2021-04-29 16:46:10 | 書籍・読書

 「青空文庫」で徳富蘆花の「みみずのたはごと」を読み始めた。重版を重ねた名随筆集である。
その二題目の「都落ちの手帳・千歳村から」をよみはじめて、その「二」であれっと思わせる文章に出くわした。
「家を有つなら草葺くさぶきの家、而して一反でもいい、己が自由になる土を有ちたいという書き出しで、少年時代を過ごした熊本大江村の家のことに触れている。
そしてそろそろ咲き始めるその旧居である「徳富蘇峰記念館」のカタルパの花についての記述があった。
現在では、蘇峰が新島襄から種を譲り受けて植えたとされており、私もずっとそういう認識でいたが、この文章を読むとなんだかこの説が怪しくなってくる。

「父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ神樹しんじゅなどの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗さとうきびなど標本的に試作しさくした。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時菓樹かじゅは幹に疵つけ徒長を防ぐと結果にこうがあると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木わかきの膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵たてきずをつけて歩いたこともあった。」

つまり、蘆花の父・徳富一敬が津田仙(津田梅子の父)の学農社からここに記されている樹木を仕入れていたというのである。屋敷の梨の樹の記述などからすると、カタルパもここに植えられた可能性がある。
そうなると蘇峰と新島襄の絆として植えられたという話は、「作り話」ということになるが如何だろう。

いろいろググっていたら、やはり同志社関係の永井康博氏の特別寄稿「同志社の完成は三百年‐新島襄と津田仙」という論考に出くわした。
永井氏はまさにこのことに触れられているが、蘇峰先生の言がいよいよ怪しく思える。

GW頃にはカタルパの花は見頃ではないのか、自転車を漕いで拝見に出かけてみようか。
「蘇峰先生、真実は如何に」とお聞きしたい。

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■細川小倉藩(557)寛永八年・日帳(十一月三日~四日)

2021-04-29 09:05:49 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年十一月)三日~四日

         |                                       
         |   三日  加来二郎兵衛・奥村河本瀬兵衛
         |              〃〃
         |
         |一、修理・助進兵庫当番也
         |     〃〃
善光寺九月ノ祈祷 |一、善行寺之坊主、九月御祈祷之御札上可申と仕候処、相煩、延引仕由にて、今日使僧御札持参被申
札ヲ上グ     |  候、則、御本丸ニ納させ申候事、
鷹師捉飼ニ手伝ヲ |一、京都郡へ、明後日御鷹遣ニ、山本三蔵罷越候間、御小人弐人、手明之衆五人申付候様ニと、被申
乞ウ       |  候事
         |一、今日、長崎へ御飛脚差下候、様子ハ鏡善右衛門ゟ、高原二右衛門儀ニ付、書状遣候を、持せ遣候、
長崎ノ荷口明ノ時 |  幷御かい物奉行衆へも荷口いつ明候共、不知候ハヽ、様子立聞、此返事ニ可被仰越候、それニ
期ヲ問ウ     |  したかひ、迎舟下可申由、申遣候事、
         |    (縫殿助、町奉行)                        (伯 楽)
あかや某布代銀ヲ |一、吉田ぬい被申候は、あかや二郎兵衛ぬの代銀取こミ申候、二郎兵衛請人ニハ、はくらく久丞・二
取込       |  郎兵衛せかれ伊上吉十郎、此両人手前ニて知行へかけ候て、来年ノ御借米ニて成共、取立申候様
         |  ニと、ぬい被申、候事、其段修理・助進とも談合可申候、兵庫返事申候事、
         |          〃〃
入籠人餓死セム  |一、同人被申候は、東円応寺町喜右衛門事、籠之内ニて、事之外草臥申候間、か様ニ御座候は、死可
飯米ナシ     |  申事も可有御座候間、其子細は、飯米一円無之ニ付、かつへ候て草臥れ申候と、相見へ申候間、先
         |          〃
         |  籠ゟ出シ申候かと、又は飯米とも給させ申候様ニ成とも、被仰付候へと被申候、其段修理・助進
         |         兵庫
         |  とも談合可申と、返事申候事、       注:入籠者の食事は自前であったことが判る。
鷹師捉飼ニ小人ノ |一、御鷹師山本三蔵、明後日京都郡へ御鷹遣ニ参候ニ付而、御小人弐人召連参候に付而、御小人小頭
用        |  左衛門ニ申渡候事、
         |                     (周防熊毛郡)
忠利出府ノ乗船上 |一、谷忠兵衛・竹内吉兵衛、 上様御舟無事ニ、上ノ関まて送届、仕舞申由にて、今日被罷戻候事、
ノ関ニ着ス    |
積載ノ荷物ノ覚  |  但、御舟ニ御積被成候荷物、
鉛        |  一、なまり  百斤包百壱丸、
棕櫚竹      |  一、しゅろ竹 八桶、
砂糖       |  一、四拾ハ  さたうノ筵包、
         |  右ノ分、御舟ニ御積被成候事、
         |  (近元)津川立珍の兄・津川近利の嫡男
伊豫松山ノ稲生某 |一、津川数馬殿ゟ、使者を以、被仰候は、伊与之松山ニ被居候稲生次五兵衛殿と申仁ゟ、早晩御鷹上
ヨリ鷹ヲ贈ラル  |                                (松井興長)
         |  申由にて、御鷹弐連居参候間、御鷹請取せ可遣通、被仰早漏間、其段佐渡殿へ御鷹師衆を被仰付、
         |  (ママ)
         |  可被遣候へと、佐渡殿へきりかミ遣申候事、
町人借米銀取立ノ |一、円応寺町喜右衛門と申候もの、かし付申候借米銀取立之奉行ニ、橋本惣右衛門申付、遣候也、
奉行       |
松山ヨリノ鷹請取 |一、伊与之松山稲生次五兵衛ゟ、三候御鷹請取せニ、山本三蔵・渡辺三十郎両人申付、遣也、
ニ鷹師ヲ遣ス   |
         |一、三斎様へ被進之候御飛脚ニ、 殿様ゟ我々へ被成下候 御書、此地御家老衆ゟ、中津へ参候飛脚
         |  ニ、貴田半左衛門所ゟ言伝遣申候也、

         |                                       
         |   四日  河本瀬兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也
稲生某使者ニ銀子 |一、伊与之松山ニ被居候稲生次五兵衛ゟ之使者ニ木戸茂左衛門と申ものニ、銀子弐枚被遣候、上田忠
ヲ贈与ス     |                     〃
         |  蔵持参被仕、被相渡候由、忠蔵被申候、右使者茂左衛門ゟ、忠蔵ニ扇子弐本持参申由、忠蔵申候事、

                   参考:■銀一枚とは・・


         |                 (規矩郡)ノ
大里ノ茶屋ノ掃除 |一、佐渡殿ゟ、使者を以、被仰越候ハ、大里御茶や掃除已下申付候や、いまた不申付候ハヽ、御郡奉
ヲ命ズ      |  行をよひ、可申渡由、幷先被鷹野弐罷越候て、御茶やを見申候処、たゝミ事之外悪敷候、是も表
畳ノ表替     |  かへ可申付由、被仰越候、得其意存由、御返事申候事、
         |  


           

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■山名重澄・軸

2021-04-29 06:42:40 | オークション

           【真筆】【蘇山】[山名十左衛門重澄] 11112 掛軸 横書 合箱 紙本 熊本 肥後 細川幽斎 在銘

         

細川家家臣・山名重澄の和歌がしたためられた軸である。
大河ドラマ「麒麟が来る」で全国区になった、三淵藤英と細川藤孝の末弟・山名好重の曾孫に当たる、三淵家4代当主である。
妻は松井寄之(松井家四代・細川忠興六男)の女・國である。
多くの和歌が遺されている。

長岡十左衛門の名で知られ、従弟・前川勘右衛門の嫁取問題がこじれ、相手方の一族を誅伐する「北の関事件」に深くかかわり、鉄炮などを携え柳川藩領・北関まで入り込みこれらを殺害した。
豪放な性格であったろうと思われるが、一方ではこのような和歌を残している。剛柔持ち合わせた人物であることを窺わせる。

         山名聴水 名は重澄、十左衛門と称す、致仕して後聴水と改む。藩の家老職となり食禄五千石。
              先祖長岡伊賀守好重は細川幽斎の実弟たるを以て累代重職たり。延宝年間筑後北關
              に於て
前川勘右衛門(従弟)を助けて藤田助之進親子を討取り武名を現はす。
              聴水又筆札に妙なり世に伝へて珍蔵す。
              享保六年九月十三日没す。享年七十六。坪井宗岳寺に葬る。

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