津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(541)寛永八年・日帳(十月十二日~十六日)

2021-04-08 07:57:41 | 細川小倉藩

    日帳(寛永八年十月)十二日~十六日

         |                                       
         |   十二日  河本瀬兵衛・奥村少兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
長崎ヨリ砂糖鮫皮 |一、長崎ゟ御舟戻申候、此比御銀子積下申御舟也、此舟ニ、砂糖・さめ参候、さたうハ口御納戸へ渡
ヲ積帰ル     |  ス、さめハ御こし物奉行理左衛門・又四郎ニ渡ス、
腰物奉行     |
         |一、永良長兵衛・長谷部文左衛門尉乗せ上り候御舟、下申候事、御船頭ハ三木清太夫、
         |一、御鷹師衆・御掃除坊主衆、のせ上り候御舟も下候事、御船頭ハ三宅清介也、
能役者江戸ヨリ全 |一、江戸ゟ、御役者衆も不残下申候由也、
テ下着ス     |
         |  (沼田延元)
沼田延元下邸前ノ |一、長岡勘解由殿ゟ被仰越候ハ、私下屋敷ノ前ノ道ニ、松三本御座候、荷付馬もつかへ、夜中ニハ人
道ノ松の切除ヲ願 |                                (甚介)
ウ  掃除奉行ニ |  も行当候様ニ御座候、御談合之上、御切せ候て可被下由、被仰候、上林ニ可申付由、返事申候事、
命ズ       |

         |                                       
         |   十三日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |
         | (横山重嘉)(浅山)
         |一、助進・修理当番也、
         | (ママ)
         |一

         |                                       
         |   十四日  河本瀬兵衛・奥村少兵衛
         |
         |      (田中氏次)
         |一、修理・兵庫当番也、
         | (ママ)
         |一

         |                                       
         |   十五日  奥村少兵衛・加来二郎兵衛
         |
         |一、兵庫・助進当番也、
鉄炮足軽等交替出 |一、今日江戸へ、御鉄炮衆ノ替四人、御裏方御番ノ替四人、差遣申候事、
府        |
         |一、大坂へ之状共ハ、御船頭田辺長介ニ相渡候事、
江戸ヘノ物数   |一、右、江戸へ遣八人ニ相渡物数、
         |  一、我等共ゟ、言上之文箱壱つ、
         |  一、御年寄衆ゟ、言上之文箱壱つ、
         |  一、江戸御奉行衆、其外方々へ之状共壱包、
京ヘノ状     |  一、京衆へ之状共も、右之衆京弐よせ申ニ付而、渡遣申候也、
         |   (松井興長) (自徳院、松井康之室)  (雨紙)
自徳院へ唐綿   |  一、佐渡殿ゟ、しとくゐん殿へ被遣あまかミ包壱つ、深水惣右衛門ニ渡、遣申候、但、唐わたの由
         |    也、
         |  一、御奥方ゟ上り申御たひの由にて、箱壱つ、清半入へ参かミ袋壱つ、一つニ包右之御鉄炮衆ニ
         |    渡、遣候也、

         |                                           
         |   十七日  加来二郎兵衛・河本瀬兵衛
         |    〃
         |
         |一、助進・修理当番也、
上方ヨリノ物数  |一、御船頭小出惣左衛門尉罷下候ニ、積下候物数
鷹ノ足革用ノ紫皮 |  一、御鷹ノあしかわニ成候紫皮、三枚下候事、
京都買物仕様ノ書 |  一、京衆ゟ、京都御かい物仕様ノ書物下候事、
物        |
         |   (長沢顕長室、沼田清延女)
         |  一、いよ殿へこさ包箱壱つ、
船橋殿      |  一、船橋殿へこも包壱つ、
三斎様中津帰城  |一、三斎様、昨十五日ニ、中津被成御着由、申候事、
         |一、御小早船河村喜左衛門、今朝着申候事、
舟屏風改造    |一、御舟屏風ノ中入を入させ候と、右出来候をこハし申御横目ニ、松山小兵衛を申付候事、
         |一、三斎様御下向被成候ニ付而、越中様ゟ、我々共へ御書成被下候を、貴田半左衛門持せ被遣候也、
         |
         |一、江戸ゟノ御飛脚、御鉄炮衆井口十兵衛・寺尾左介与七右衛門、京まて 三斎様へ被遣筈ニ御座候
         |                                        (ママ)
         |  へとも、 三斎様被成御下向ニ付、七右衛門ハ中津へ参候而、未不帰候也、井口十兵衛ヘハ御国
         |  へ下り候御飛脚ニて御座候ニ付而、昨晩着申候、
                              



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■カタルパに想う

2021-04-08 06:38:51 | 徒然

                  

 徳富健次郎(蘆花)の「死の陰に」をこだわって読んでいる。
蘆花の一行が水前寺・江津湖界隈に出浮きを楽しむ「水遊び」を四回にわたりご紹介してきたが、私自身この辺りを遊び場として親しんできたから、文中の風景が良く理解できる。
巨漢の蘆花が車に乗り込むとき、車夫が車を支えきれず、通りかかりの「中婆」が駆けつけ、なんとか車が水の中に落ちることを免れたという最後の話などは思わず笑いが込み上げ、思わず咽が鳴ってしまった。
そんな命拾いをした蘆花は翌日大江の家を訪ねている。
幼少年時代を過ごしたその家は、兄・蘇峰の名を冠むりして、現在「徳富蘇峰記念館」として整備されている。
それに関する文章「古巣」に於いては、久しぶりの帰郷に、叔父叔母・甥姪やその子供たちなどに親しく迎えられ、穏やかな刻を楽しんでいる。
徳富蘇峰記念館ではもう一月もすれば「カタルパ」の白い花が咲き始める。
「死の陰に」は大正二年の旅の記録だから、蘆花が住んで居た頃とは様相が変わり、泉水が埋められ、そこに蘇峰が新島襄からもらい受けたというその樹はすでに植えられている。
蘇峰によって育てられた樹はすでになく、二代目・三代目であるらしいが、現在の樹も随分枝葉を伸ばしている。

 昨年史談会にK様が入会されたが、合志義塾の創始者の一人・工藤左一の御子孫である。
左一は蘇峰の大江義塾で三年程教えを乞い、その後教育の機会を得ない農村部の子弟のために、明治25年私塾を開き、昭和24年に閉塾するまで実に7,000人を超える人たちが勉学に励んだという。
その塾にもまた、左一らが蘇峰からカタルパの樹をもらい受けて植樹したという。
そして、合志市のいくつかの学校にもその子孫のカタルパの樹が植えられていると聞く。
合志市が生んだ偉大な教育者として、工藤左一と共同創始者・平田一十の名は、このカタルパの樹とともに語り継がれていくであろう。

久しぶりにカタルパの花を拝見に行こうかと思っている。わが母校白川中学のすぐ近くである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする