延元様玄也公御一代之御儀覚書(二)
一右之三御大将芝野ニ御座候處へ延元様被成御越候
細川玄蕃殿興元 延元様之御鑓を御持候而御出小兵衛
骨折申候 鑓を可被成御覧候 サゝラノ如く成申候よし被仰候処
右衛門太夫殿正則・左馬助殿嘉明如何にも見届申候無比類働
のよし御褒美ニ御座候 其時 忠興様御意候は沼田小兵衛
と申我等不遁者にて御座候拙者小身ゆへ僅成仕合ニ申付
置申候一廉御褒美嘉被成候間随分情を出し候様にて御直
に被成御意候由御座候
弥十郎儀岐阜中納言殿へ御奉公申儀不籠城仕候
中納言殿下城に成候時分侍四拾九人之内にて御座候
延元様鑓を被成候相手瑞勝寺大将分之儀も林斎
能存知候手語申候由御座候 林斎又御家に参り御奉
公仕候
一同九月十五日関ヶ原御合戦惣而関ヶ原大合戦にて競を味
本ノママ追ヵ
方に申候に付鑓相申候と早速敵敗軍仕候 止打に成申候
故御高名も無御座候由薩摩の落武者川上四郎兵衛と申候
侍 延元様生取被成候得共御助薩摩へ被遣候 其後豊
前へ御国替以後川上処より使者差越御高御の御禮を
被申波平中脇差・種ヶ嶋の小筒一挺進上申候 其時分
まてハ種ヶ嶋の筒中々他国へ出し不申候多分嶋津殿
より被進たるものにて可有御座候よしに御座候事
此波平の脇差細川若狭珠様へ玄冬院様御■物に進候
一同年 忠興様岐阜関ヶ原の依御軍忠豊前国被成
御拝領同六年豊前へ御入国被遊候 豊後ノ内に六万石
忠興様御領分御座候 此所関ヶ原一乱ニ亡所仕候ニ付
延元様と長岡佐渡守殿御両人豊後御仕置として
御先に御越被成所々之儀被仰付豊後より直に小倉江
御越被成候事
此時豊後安岐と申所にて伊藤十兵衛所に御宿被成
其節御約束被成候に付十兵衛儀門司へ罷越
延元様江御奉公申上候 十兵衛儀ハ伊東源之丞親に
て御座候
一忠興様豊前へ御入国被遊門司之城 延元様被成
御預ニ付門司へ御居城被成候 与力両人御付被成候 三百石
沼田藤七殿・二百石荒木善兵衛にて御座候 大坂御陳以後
一国一城に被仰付時分元和元年之比まて十四五年之間
門司に被成御座候 御在城之間御城内外所々古来之縄張
等被成御替 延元様思召候侭に依被仰付候 毎年御普
請絶不申被盡情候御普請により小倉より御鉄炮頭就
役人等参候 御城割申候刻もすきと坪之手相不申候由申候事
江戸證人の始まり 一関ヶ原御陳以後慶長六七年之比諸大名之證人幷陪臣
■々之證人をも江戸江被召上依之西国筋江ハ鵜戸兵庫殿
本ノママ
江戸より被差下西国方御吟味被成候事付 忠興様を門司へ
被成御越兵庫殿被遊御馳走候 此時於門司御城兵庫
殿を 延元様被成御振舞候 忠興様御相伴被遊候由ニ御座候
御家中より証人被遊上は 延元様長岡佐渡殿・有吉内膳
殿・長岡肥後殿本名飯河此四人ノ證人被差上に究申候 然處に内膳
殿ハ病死被成肥後殿ハ子細御座候手切腹被仰付候に付
延元様・佐渡殿御両所ノ御證人まて被差上候事
一同七八年之間に 延元様為御證人御息女おたあ様江戸へ
御登せ被成候段 権現様三拾人御扶持方被仰付候 御代々
府相変天下陪臣の證人被成御赦免り迄御扶持方被為
拝領候事
此時諸国より男子之證人被差上候には五拾人扶持
女子之證人にハ三拾人扶持方御定法ニ究り申候
長岡佐渡殿よりは松井与二郎殿被差登候付五拾人
扶持被為拝領候 忠利様御代に肥後へ被成御入国
候以後有吉頼母殿・長岡監物殿證人被差上是も定
詰に御座候得共 権現様以後證人にハ
公儀之御扶持方不被定候事
一門司御在城之間 忠興様忠利様江戸御往来被遊候
自分ハ毎度門司隼人にて御門出御国入之御振舞御嘉例
に被成候 御道具なと被成御拝領刻も御座候叓
一同十一年江戸御城を御築被成候に付右御仕置のた
め御奉行 延元様も御上り伊豆網代に久しく
被成御詰候叓
一同十六年八月御子息三五郎様御早世被成候 号真
光寺殿門司ニ新光寺と申候御寺被成御建立候事
一同十七年九月御内室様御病死被成候 号大陽院殿
延之ヵ
冨小路左衛門殿と申候公卿之御娘延元様御母公ニ而御座候叓
一同十七八年之比嶋津兵庫頭殿義弘 小倉江御越被成候刻
延元様江も儀と御使者にて時服等被進候事