17日の熊本史談会で、又話題に上がったのが「三太郎峠越」の事である。
豊臣秀吉の薩摩征伐も、島津斉彬公の参勤交代や、篤姫の江戸東上の旅、また西郷隆盛の熊本進出にあたっても、道幅一間ほどのこの羊腸の小径を通行したとされる。
往時の人は随分難儀して旅をしているが、其の様を徳富健次郎(蘆花)は「死の陰に」で書き残している。
船で海路をたどると2時間、三太郎越えは11 時間かかったという。
古い旅の記録とか、小説や随筆などいろいろ取り上げられているのではないかと思い、調べてみようかと馬鹿なことを思い立った。
そして、景行天皇の御一行様は「三太郎峠」を通られたのかと考えた。
切っ掛けは、一寸古い記事だが熊本日日新聞に、八代市水島にある国の名勝「水島」に関する記事が出ていた。
https://kumanichi.com/news/id174024
ある読者の指摘により、その正式な住所を調べたというものだが、干拓などによりこの「水島」が守られた経緯なども明かされている。
現況 八代市植柳下町水島500番地
この「水島」日本書紀の景行天皇の項に登場する処だが、熊本にかかわり深い記事が多くあり、大変親しみやすい。
残念ながら「三太郎峠」については触れていない。残念・・・
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景行十八年 戊子
くまのあがた くまつひこ えくま おとくま
・四月三日、 熊縣に熊津彥と云う兄弟がいた。二人を招かれたが、兄熊はやってきたが、弟熊は来なかったので誅殺した。
あしきた こじま やまべのあびこ をひだり
・同月十一日 海路で葦北の小嶋に行き、そこで食事をされた。この時、山部阿弭古の祖の小左に冷たい水を所望されたが、この嶋には水がなく、為す術がなかった。
そこで、天神地祗をお祀りしたところ、崖から寒泉が湧きだしたので、それを天皇に献上した。
みづしま
これ故、この嶋を水嶋と云い、今もその泉は水嶋の崖にある。