津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本城築城の足跡を考える

2022-02-08 07:02:00 | 徒然

 史談会の2月例会を前にして、ここ一週間ばかり「特別史跡熊本城跡総括報告書・歴史資料編」の絵図・地図や史料・解説などを眺めている。
また同時に「熊本城天守閣常設展示図録」や、先にご恵贈いただいた「熊府諸景色の物語」をよんだりしている。
今月の例会では、会員のM氏が熊本城の「三の丸」の存在を探求される。
熊本城はいわゆる「阿蘇4」と呼ばれる地層が小山を形成した突端部に位置している。
この高まりは北につづいて京町台地を形成しているが、まるでヒョウタンのくびれのように京町口でわずかに繋がっているだけで、熊本城は過去には茶臼山と呼ばれの東面はカットされ北西面は急激に落ち込んでいる。

それゆえ熊本城は西に広がる斜面を利用して「梯郭式縄張」で構成されている。本丸・二の丸そして今回取り上げる「三の丸(三の曲輪)」が梯郭をなしている。
梯子の段を増やすように曲輪が順次築かれていった。

南面はというと、慶長国絵図(9年)で判るように白川が大蛇行して、熊本城の真下、現在の坪井川の位置まで入り込んでいた。
これが清正により直線化されたのは慶長15年までの2~3年の間に行われたようである。
ここで細いながれであった坪井川を城域の南側から、新町・塩屋町を取り囲むように内堀となさしめた。
竹の丸や長塀の築造は、まさに最後の梯子の段がつけられて熊本城の完成を迎えた。


 つまりこの時期まで城の外に位置する「花畑邸」は存在していない。阿蘇氏の居館であった矢部(現山都町)の愛藤城は、阿蘇氏の没落後は加藤家が城代を置き管理する処であったが、慶長17年破却され、屋形の用材が熊本に運ばれ花畑邸の大広間となったとされる。

 そして細川氏の肥後入国後、寛永十一年忠利は「熊本のしまり(防備)」のために、熊本城内の櫓や堀などの改修を申し出ている。
又、寛永十七年には、内堀に相当する坪井川の浚渫と、外堀にあたる白川を4㌔ほど南の川尻を流れる大川(加瀬川)とを水路をつなぎ、拡幅・浚渫すべく幕府に申し出で了解を取り付けている。
天草島原の乱という大事件の勃発もあり、また残念ながら忠利の死もあってかこれらの企ての多くはとん挫している。
然しながら、加藤清正によってなされたこの「梯郭式」の名城は、細川家に受け継がれて破却も免れた。
明治初頭の坪井川の姿が、マンスフェルトの写真「熊本城に沿った小川」や、「熊府諸景色の物語」の「坪井川と厩橋」で同じ場所の風景を見ることが出来るが、後者の写真は須土口門前の川沿いに誠に小さな「鰻屋」とする建物が見事なピントで撮されていて、この時代の息吹を感じさせてくれている。

 残念ながらこの写真に残る穏やかな風景は西南の役で失われたが、又今日のような素晴らしい姿が熊本大地震の膨大な被害を乗り越えて復旧の途にある。
地震の後に姿に県民は涙したが、これはまさしく明治10年当時炎上し姿を消していく御城をを眺めた城下の人々の感慨と同じものであろう。
20年懸かるともいわれる復旧工事だが、残念ながらその完成を見ることはできないが、その過程をうかがえるのは大いなる楽しみである。
いろんな資料に親しみながら、改めて「熊本城は名城」という感を改めて感じている。



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