現在の新町3丁目あたりを昔は木下町と言った。藩政時代、豊臣一族の木下氏の屋敷があったが故である。
木下氏が入ったのがいつの頃からかは判らないが、以前は、細川興秋女・鍋を奥方とする南条元信の屋敷であった。
鍋が幼い娘・伊千と共にこの屋敷に入ったのだろう。
元信は、伯耆国(鳥取)東3郡6万石を領有した南条元続の弟、小鴨元清(元宅)の嫡孫である。
元清は病に倒れた兄・元続を補佐したが、兄の死後秀吉により宇土の小西行長の許に遣わされた。小西没落後加藤清正に仕えた。6,000石。嫡子勘三郎が病身であったため孫の元信が跡を継いだ。元信の幼少期については詳しく承知しない。
「熊本藩年表稿」などを見ても、元信や鍋・伊千の記録は見当たらない。
「福岡県史・近世史編-小倉細川藩」に該当する、熊本藩における資料(奉行所日録)が刊本化されていないので、なんとも歯がゆい限りである。
其の後、元信の話は、細川綱利の時代寛文九年に突然登場する。この年の十月陽明学徒の追放事件が起きた。幕府の異学禁止に連動したものである。
19名が追放されたが切支丹関係者が交っていたとされるが、元信も告訴する者があって藩庁の調べる所となったが、容疑はなくただ長崎奉行所へはその旨が報告された。
当然長崎奉行所は幕府へ報告したが、事は切支丹に関係する事であり、元信は長崎奉行所へ召喚される。
細川一族である南条元信の長崎行きは、大名並みであったと記録が残る。長い調べが行われ有耶無耶の内に放免されたという。迎えの舟がだされ、行き同様の形で帰国した。その後の元信は終生質屋(牢)暮らしを強いられることになる。
詳細は次回・・・
長岡與五郎興秋
‖------------鍋
氏家元政女● ‖--------伊千
南条元清 ----勘三郎----元信