一ト月ほど前だったと思うが、ヤフーオークションに「熊本城史梗概」が出品された。
私も密かに狙っていたが、次第に値段が上がり「日本の古本屋」に出ているものよりずいぶん高値になった。
こうなるとオークションの意味がなくなりいっぺんにその気を亡くしてしまった。
内容もさることながら、四枚の絵図がついており、こちらの方が欲しくなってしまう。
その内容の方は、熊本城顕彰会の会誌「熊本城」の第3号から、鈴木喬先生の解説で連載が始まり26号まで19回に及んでいる。
書き始めの冒頭に、この「熊本城史梗概」が昭和2年の発刊以来、再販がなされておらず入手困難になっていると書かれている。まさにヤフオクに出品されたものや、日本の古本屋に在庫として登録されている数冊の本が現在入手できる数少ない本だということである。
会誌「熊本城」は、鈴木先生の「註」もあり大変ありがたい。本が増殖し奥方の機嫌を損なわせている昨今、この本に限っては購入を見合わせている。
国土交通省・熊本河川国道事務所のHPより引用
■清正公は大蛇行時代に白川の流れに大橋(長六橋)を懸けるように指示している。つまり旧白川の河道は長六橋の上流に入り込んでいなければならないことになる。
数年前、ある小さな会合で熊本の歴史をお話したことがある。講演というより雑談という感じであった。
精しい方があるかと思えば、「歴史は門外漢」という方も居られる。そんな中で「白川の大蛇行」の話が出ると皆御存知であった。
「むか~し新聞に出とりましたもんな・・」と仰った。調べてみると、その前に熊本城顕彰会の会誌「熊本城」の、平成7年(1995)8月発行の第19号に「白川・坪井川流路考」という記事で発表されている。
つまり27年も前のことになる。この記事に驚いた熊本日々新聞社がこれを取り上げ、新聞の読者は「たまがった(驚いた)」のである。
慶長国絵図をみると白川は大きく蛇行しこぶ状の流れはお城下に迫っている。
「むかしゃ(昔は)追い回し田畑の処は段(高低差)のついとったもんな、あるが(あれが)白川の跡だったったい」と、私より年上の方は首をひねりながら語っておられた。
「こん(この)先生は大したお人ばい・・」と富田先生を称賛しておられた。
大蛇行はその河岸が竹之丸に及んでいたようだし、お花畑は大蛇行のふくらみの突端部に在ったものと思われる。
熊本市役所はまさに旧河道の真中に位置していたことになる。
最近の一部資料を見ると、その白川の大蛇行を古城(第一高校)の敷地に入り込ませているものがある。これはいただけない。
古城の完成はそれ以前のことである。白川は古城の城壁下を流れていて、大蛇行が埋め立てられた跡は坪井川の小さな流れとなって、熊本城と共に内堀の役目を果たしたのである。