熊本史談会2月例会は、コロナに負けず開催します。 再度のコロナの猛威に曝されます中、 記 演目: 熊本城歴史の中の三の丸の存在を考える。 講師:熊本史談会会員・松本興二郎氏 一般参加自由: |
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南条元信(以心)の原因が良くわからない寛文九年(1669)の熊本城竹の丸の質屋(牢)入りは、彼がなくなる天和二年(1682)四月まで、13年にも及ぶ一生の務めとなった。
一方、鍋は元信の死去から7年後の元禄二年(1689)六月十三日に死去している。共にお墓は横手の禅定寺にある。
又、養父元信と同時期に永蟄居の処分を受けた女婿・南条元知は隠居して道固と号し、元禄10年9月、藩主綱利から頭巾が贈られ28年にも及ぶ蟄居生活が終わった。
その間嫡子勝千代は延宝5年(1677)命により、外祖父・米田是長の養嗣子となった。没年から計算すると15歳くらいであったろう。元知・吟夫妻にとっては心休まる瞬間であったかもしれない。
そして吟は元知の蟄居生活の終わりを確認するかのように、元禄11年9月24日に死去し、父・是長の菩提寺熊本市坪井の見性寺に葬られた。そして元知の死をもって名門・南条家は絶家することになる。
細川興秋の血は、女系(鍋→伊千→吟)をもって米田家に受け継がれた。つまりガラシャの血が受け継がれたことになる。
初代・米田是政室雲仙尼は明智光秀の姪だとされ、その父は真賀法印である。
明智家及び室・妻木家の菩提寺(坂本西教寺)の関係者だと思われるが、この坂本西教寺に米田家のお墓が存在する。
與七郎是季(興季・監物)、嫡男・是長、その弟・是正、是長の娘・吟(細川忠利末子・南條元知室)、長岡元知と吟の子で是長の継嗣となった是庸の五つの霊が祀られている。
細川興秋が父・忠興から江戸證人として命を受けながら京都でその意に反し出奔した後、興秋の家老とも言われた長岡肥後とその父飯河豊前が誅伐され、これに抗議する如くして是季も細川家を出奔している。
長岡肥後の奥方は是季の末妹である。肥後と共に自刃した。
そして、この西教寺に是季は身をおいたといわれる。
そのとき興秋は幽齋の許に在ったのだろうか。又は叔父(かっての養父)の細川興元を頼ったのかもしれない。
興秋と是季は二人で逢ったり、連絡をしあったりもしていたであろう。大坂の陣では二人は共に大坂方について戦った。
細川家記は元和元年、興秋は父・忠興の命により東林院で自刃したとされる。
今般、高田重孝氏はその興秋が遁れて豊前に隠れ住んでいたことを明らかにされた。
ここにも米田是季の姿が見え隠れしている。明智氏の血が二人を強く結びつけていることが感じられる。
今回、興秋の娘三代の女性の生きざまを取り上げたが、この事を強く感じさせられた。
明智光秀姪
雲仙尼 --------- 米田是季---------是長=======是庸
‖ ↑
+----細川興秋------鍋 ‖-------- 吟 ↓
| ‖-----+---伊千 ‖----是庸
| 南条元信 | ‖
| +=======元知
+----細川忠利 ----+---光尚 -------------- ↑-----綱利
| ↓
+---------------------元知