津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■それぞれの悲喜劇(2)-忠隆

2022-02-25 10:43:10 | 歴史

 佐藤雅美著「千世と与一郎の関ケ原」

細川忠興の嫡男・忠隆の悲劇は、絶世の美女であったという前田利家の七女・千世との結婚であったろう。
時勢のなせるわざとはいえ、細川・前田両家にとり二人の間に破綻の時が訪れるとは思いの及ばぬ事であったろう。
忠隆は天正八年(1580)四月廿七日(八日とも)青龍寺生まれ、秀吉の取り持ちによって忠隆は千世を妻に迎える。
慶長二年(1597)のことである。しかしながら二人の幸せな生活は長続きしなかった。
慶長五年(1600)七月十二日、石田三成は細川忠興・忠隆父子の関東出陣中の留守をねらって細川家の玉造りの屋敷を襲い、母ガラシャは自害して果てたのである。
その折、千世は細川屋敷を脱出し、実姉の嫁ぎ先である小早川秀秋の屋敷に逃げ込んだ。
そのことが忠興の怒りをかい、忠興は忠隆に千世との離縁を言い渡す。
千世に未練を残す忠隆は忠興の意に反してこれを拒み、千世の実家・前田家を頼った。
この年、前田家は利家夫人・芳春院を、細川家は三男・光千代(忠利)を徳川家に證人(質)として江戸へ遣わしている。
徳川家との関係を憂慮してか、前田家は忠隆の受け入れに難色を示す。
再び京に戻った二人に対して、父忠興は廃嫡を申し渡す。これとて徳川の顔色を見ての事であったろう。
忠隆はこれを受けて隠居し休無となのった。その後の二人の行動については詳しい史料が見当たらない。
それゆえ、内膳家においては、長女・トク(西園寺実晴廉中)、二女・キチ、三女・フクを忠隆と千代との間の子とされている。それぞれ、慶長10年、13年、14年の生まれである。牢人身分で約9年以上二人の夫婦関係は続いていたということだろうか。その後千世は前田家に帰っている。
戦国の世の悲しい話ではある。

内膳家の「細川忠雄記」によると、父・三斎の晩年、忠隆は八代に赴き久闊の日々を過ごした。そんな中で三斎は八代領を譲ると語ったらしい。
また忠隆は旗本として徳川家に仕えることを願っていたらしく、忠利が尽力し、光尚も又これを受け継いだらしいが、願いが果たされることはなかった。

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■見事な府中全図は加藤時代のもの・・

2022-02-25 08:34:49 | 地図散歩

 寛永六・七年頃の熊本府中を網羅した絵図は「加藤家屋敷割絵図」といわれるものだが、「熊本城跡歴史資料編第2分冊」においては、
「屋敷割下絵図」として紹介されている。

大変見事な絵図であり、加藤家時代の家臣の屋敷割が見て取れる。
加藤家の改易に当たりこの絵図は幕府に提出されたものと思われ、その後細川家の入国に当たり家臣団の屋敷割に使われた。
絵図の上にそれぞれ「上々々」「上々」「上」などと記入されている。

三卿家老以下重臣の屋敷の割当てが見て取れる。立派絵図がなんだか雑に扱われていて切なくなってしまう。
以降いろいろな絵図が作られていくが、府中すべてを網羅した「全図」としては最高級である。
そのスケール感もかなり精密で、現在の地図にもそん色ないように思える。
複製をつくって販売してもらえないものだろうか?「みうら折り」にして城下町を散策するのも良いではないか。

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