佐藤雅美著「千世と与一郎の関ケ原」
細川忠興の嫡男・忠隆の悲劇は、絶世の美女であったという前田利家の七女・千世との結婚であったろう。
時勢のなせるわざとはいえ、細川・前田両家にとり二人の間に破綻の時が訪れるとは思いの及ばぬ事であったろう。
忠隆は天正八年(1580)四月廿七日(八日とも)青龍寺生まれ、秀吉の取り持ちによって忠隆は千世を妻に迎える。
慶長二年(1597)のことである。しかしながら二人の幸せな生活は長続きしなかった。
慶長五年(1600)七月十二日、石田三成は細川忠興・忠隆父子の関東出陣中の留守をねらって細川家の玉造りの屋敷を襲い、母ガラシャは自害して果てたのである。
その折、千世は細川屋敷を脱出し、実姉の嫁ぎ先である小早川秀秋の屋敷に逃げ込んだ。
そのことが忠興の怒りをかい、忠興は忠隆に千世との離縁を言い渡す。
千世に未練を残す忠隆は忠興の意に反してこれを拒み、千世の実家・前田家を頼った。
この年、前田家は利家夫人・芳春院を、細川家は三男・光千代(忠利)を徳川家に證人(質)として江戸へ遣わしている。
徳川家との関係を憂慮してか、前田家は忠隆の受け入れに難色を示す。
再び京に戻った二人に対して、父忠興は廃嫡を申し渡す。これとて徳川の顔色を見ての事であったろう。
忠隆はこれを受けて隠居し休無となのった。その後の二人の行動については詳しい史料が見当たらない。
それゆえ、内膳家においては、長女・トク(西園寺実晴廉中)、二女・キチ、三女・フクを忠隆と千代との間の子とされている。それぞれ、慶長10年、13年、14年の生まれである。牢人身分で約9年以上二人の夫婦関係は続いていたということだろうか。その後千世は前田家に帰っている。
戦国の世の悲しい話ではある。
内膳家の「細川忠雄記」によると、父・三斎の晩年、忠隆は八代に赴き久闊の日々を過ごした。そんな中で三斎は八代領を譲ると語ったらしい。
また忠隆は旗本として徳川家に仕えることを願っていたらしく、忠利が尽力し、光尚も又これを受け継いだらしいが、願いが果たされることはなかった。