津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■興秋の系類 鍋→伊千→吟とその周辺(1)

2022-02-10 07:05:32 | 先祖附

「福岡県史・近世史料‐細川小倉藩」より細川興秋女鍋(生年・慶長十六年(1611)八月六日~没年・元禄二年(1689)六月十三日)の消息を追ってみる。
興秋は細川家記に於いては元和元年(1615)六月六日自決したとされる。歳33。鍋生母は氏家元政女、名不詳。

・寛永三年(1626)七月二十九日
鍋へ南条元信トノ |一、おなへ様御祝儀ノ御使者として、岡六左衛門被罷下候ニ
祝儀ノ使者    |                                                    御乳人
御乳人      |  一、おなへ殿へ之 御書幷おちの人・おひかし殿へ大塚長庵ゟノ状壱つ
         |一、御鍋様へ、従 殿様被進之 御書、岡六左衛門預ケ被置候を、志水伯耆所ニ被居候付、伯耆小性
         |  三輪佐源太を取ニ被越候間、 御書相渡候事、付り、長庵所ゟ、御なべ殿御ちの人へ参候状を遣
         |  候事、

・寛永三年十一月十六日
忠利南条元信邸ニ |一、南條殿へ被成候 御成候、終日被成御慰候事、
遊ブ       |

・寛永四年(1627)二月廿四日
鍋知行米津出ナラ |一、御鍋様御知行、主御物成納り御座候へとも、御知行山奥故、津出不罷成候、只今御台所きれ申ニ
ズ台所欠乏ス   |  付、当座かりニ御米弐拾石御借用有度由候ニ付、則かし進之候、追付、遠藤吉右衛門手前も御算 
当座ノ借米ヲ求ム |  用可申付之由、申渡候事、

・寛永四年二月廿六日
吉野葛      |一、おなべ殿へ被進よしのくずの箱同人積下候、則遠藤吉右衛門をよび相渡候、

・寛永四年五月二日
         |          (筑紫重門室、細川幸隆女)
かねノ端午ノ帷 |一、京都ゟ御なべ殿・御かね殿端午之御かたひら御単物被調下候ヲ、大坂ゟ御小早船頭河村喜左衛
子帯       |  門持下り候を、則御内衆をよひ、相渡候事

・寛永五年(1628)正四月六日           (古保、松井興長室、三斎女)    
忠利東茶屋ニテ古 |一、今日は、ひかしの御茶屋にて、御こほ様、御かね様、おなへ様被成御振舞候事
保かね三人ニ振 |                     (筑紫重門室、細川幸隆女)
舞ウ       |

・寛永五年六月十八日        
         |
忠利鍋ノ振舞ニ臨 |一、今朝ハ、 殿様御なへ殿へ、御振舞ニ被成御座候、
ム        |

・寛永五年十二月十二日

         |     (松井興長室、三斎女)       (吊  柿)        (美濃柿)
         |一、殿様ゟ御こほ殿へ被進候御菓子、つりしかき百四十五・ミのかき百四つ・御所かき百四十七・同
         |      鬚 籠
         |  かき壱・ひけこ壱・大くり弐百七十弐、水橋五郎助持下、式ア殿内西村太兵衛ニ渡、
         |一、御なべ様へも、右之員数ほとつゝ被進候、遠藤吉右衛門ニ渡、右両人所ゟ五郎助へ切手被渡候     
         |  事、
         |
忠利ヨリこほなべ |    覚
へ音信ノ覚    |  一、ひけこ  壱つ  大くり
         |  一、杉之箱  三つ  生干かき
         |  一、ひけこ  弐つ  御所かき
         |  一、御所かき弐百九十三、ひけこ弐つニ入、
         |  右之御くわし、御こほ殿・御なへ様へ被進候間、弐つニわけ、可届旨、 御書ニ被仰付候間、弐
         |  つニわけ、式ア少殿内西村太兵衛、御なへ様御内遠藤吉右衛門ニ相渡申候、其方被持下候ニ付、
         |  如此候、

・寛永六年(1629)四月十六日(なべ、つわりか?)
なべ苺ヲ求ム   |一、御なへ様ゟ、遠藤吉右衛門を以被仰下候ハ、いちごをおもらいなされ度■被思召由ニ付、上林甚
         |  介ニ申候ヘハ、各へ申候而へと申候間、さ候て被仰下旨ニ候、奉得其意候事由申候事、
         |             〃

・寛永六年六月三日
なへ家来召抱ヲ願 |一、おなへ様ゟ、遠藤吉右衛門を以被仰聞候ハ、末岡小介替之儀申候へ共、于今相済不申候、就夫、
ウ        |                     (志水伯耆)
興秋宗加ニ仕ヘシ |  前かと與五郎様被召仕候清介と申もの、此中宗加ニ罷居申候、宗加御果候ニ付、前廉右之分ニ而
者        |  おなへ殿被召仕候ハヽ、御奉公申上度由申候、いかゝ可有御座哉と被仰下候、 

・寛永六年九月十日(伊千出産)                   鳥うたい候て、
なべ女児ヲ安産ス |一、遠藤吉右衛門尉登城にて申候ハ、 御なへ様今夜〇七つ時分ニ輙御祝被成候、江戸へ便宜御座候 
         |  ハヽ、御分を可被進之由、被仰由也、心得申候由申候、御息女之由申候也、


                                          
      長岡與五郎興秋                                                                     
           ‖---------                                        
      氏家元政女●          ‖----------伊千          
                                  南条元信

南条元信の祖父元清(元宅)は伯耆東3郡6万石を領有した南条元続の弟、小鴨元清と称し病に倒れた兄・元続を補佐したが、兄の死後秀吉により宇土の小西行長の許に遣わされた。小西没落後加藤清正に仕え6,000石。
嫡子が病身であったため、嫡孫藤八郎元信が跡を継いだ。細川家に召し出され3,000石。  
     
                        
          

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