監物櫓の解体修復工事が始まった。
そんなニュースを見ながら、「刑部邸の跡にあるのに監物(米田)台植物園とか、監物櫓とか、これいかに・・」と思い続けてきたことに、逆に疑問を覚えた。
細川刑部家の初代・興孝は細川忠興の末子(松井寄之が少し早く生まれている)だが、3歳で江戸證人として江戸に在ったが22年の長きから解放され、寛永17年(1612)正月江戸発、途中で発病して一時伏見に留まったのち、室津で何ゆえか剃髪、3月1日熊本入りし横手の安国寺に入った。
病気療養として同年7月17日菊池の隈府の茶屋に移った。
3年間の在郷として知行11,500石が給されたが、これを父・忠興が管理する処となり父子の間の不和が決定的なものとなった。
その忠興の死の翌年、正保3年(1646)9月に25,000石が給され、ここで城内古京町に転居したとされる。
資料は「古京町」と特に記している。城内の監物台植物園あたりが、刑部家の2つの屋敷があったが、此処ではないことが不思議である。
この2つの屋敷は、加藤時代から存在していたものであり、細川氏入国当時も間違いなく存在する。
2代興之は正保元年(1644)頃に生まれたと推測されるから、この人が刑部邸に入ったとは考えにくい。
つまり、細川家の肥後入国以来、刑部邸だといわれる城内の二件の屋敷は全く別人が住んでいたことになる。
興孝は寛文4年(1664)に致仕し、延宝7年(1679)に死去した。63歳であったという。
2代興之は父に先んじて寛文8年(1668)死去した。25歳。知行は一門から差し上げた。
3代は興之の弟・興知、寛文八年新知10,000石を拝領したが元禄14年(1701)死去した。
この二つの刑部邸はこの二人の兄弟の屋敷としてスタートしたのかもしれない。
そしてこの刑部邸と呼ばれるこの二つの屋敷には、前住者が存在したことは間違いない。
まさか、米田監物が住んでいたということはないと思うが。もしそうであれば、監物櫓の命名の不思議が解決着くのだが?
参考 寛永一六年細川忠興の人質交代
細川興孝と刑部家の成立の事情 花岡興輝著作撰集 掲載