一昨日の熊本史談会例会では、熊本城の三の丸の存在を検証した。
三の丸の存在を考えていると、あの茶臼山をどう縄張りをして梯郭式(階郭式)の城郭として築造していったのかに大いに興味を持った。
鹿児島大学が発表している熊本大地震後の熊本城内数か所のボーリングからくる地質断面図を提示したが、皆さんも大いに興味を持たれた様だった。
二の丸の広いスペースは薄い表土しか見当たらず、いわゆる熊本城の地山 Aso4(同上・紫色表示)を均したことを物語っていた。
一方天守部分などでは10m以上の盛り土をしている。これは驚きであったがこの土こそ二の丸を均した切土であったのかもしれない。
二の丸の北側の百間石垣における7~8mに及ぶ段差は立田山断層による地層のずれと考えられ、大昔の官道が通っていた。
古京町一帶を三の丸とも呼んだらしいが、梯郭式縄張りからするとそう呼んでも良かろうと思うが、道が通る曲輪というものを「丸=曲輪」と呼ぶのは如何かと思うがどうであろうか?町名がついていたということは侍町ではない。
古京町の人々を京町に移し、その後跡地に侍屋敷が建つようになると「三の曲輪」と呼ばれ始めたようだ。
熊本城の建設は土をいかに動かすかということに尽きるような気がする。
大蛇行していた白川は資材の搬入には大いに活躍しただろうことは大いに予想がつく。
そして最後に現在の城内竹の丸に入り込んでいた白川の流れが、版築という手法の地盤改良で白川の流れ及び川岸が埋め立てられた。
それは慶長15年あたりまでとされる。これらを埋め立てる土量は10万とか20万立米に及んだのではないか。これも茶臼山を掘り崩して確保されたのだろう。
棒庵坂こそがその搬出の道ではなかったろうか。
のちに細川家の居館となった「お花畑」は、かっての白川の流れの真ん中に位置していたのではないかと理解していたが、そうではなく大蛇行した湾曲の内側の頂上部分にあたるようだ。
花畑邸の裏手にはかって追い回し田畑という数メートルの段差がある低湿地があり、これが白川の蛇行の名残である。
加藤清正が支配したかっての阿蘇氏の居館矢部の愛藤寺城が破城の措置(慶長17年)が取られた際、その居館が解体され花畑邸に移され大広間になったと言われる。
すべて水運をもって為された。
白川、坪井川、井芹川のながれがこの大事業の運搬手段をになった。
熊本城の大工の棟梁善蔵の「覚書」によると、材木は茶臼山本体と近隣の山々から切り出され、石材は高平(?)だとある。
現在の高平の地から考えると、石材を京町台に運び上げるのは至難の業である。転がり落して坪井川を筏で運んだと考えるのが妥当である。
御城周辺の平均地盤高は標高12mくらいである。天守周辺は50mに近い。約40m、どうやって運び上げたのだろうか。
そして豊かな木々が生い茂っていたであろう周辺の山々は、材木の確保のために丸裸状態になったであろう。
そんないろいろな景色を頭に描くと感慨深いものがある。