熊本では現在各地で春の風物詩「植木市」が行われている。これらの起源は天正年間とされ、地域の賑わいや子どもたちの楽しみのために当時の隈本城主であった城親賢公が市をおこしたのが始まりだとされる。■古今肥後見聞雑記から--初市の成り立ち
熊本の中心は「新町」であったことが判る。現在は「古城(ふるしろ)」地域と称されるが、現在の第一高校校地を主とする地域が城域であった。南を白川の大河がながれ急峻な東側後背地をのぞく、北・西側には水堀がめぐらされて、白川とこの水堀は深くこの敷地内に導かれて堅固な防御態勢が整っていた。
加藤清正の時代に至って、さらに整備が進み、明治に至ってジェーンズやマンスフェルト等の住まいが建てられた、丘陵地の一番の高まりに天守が設けられた。
現在の熊本城が存在しない時代、つまり茶臼山がまだ存在していたころの熊本の姿を考えると、新町の姿が髣髴としてくる。
新町は町人の町である。当然加藤時代には侍の住まいも点在していたものと考えられるが、細川時代の侍町のような広がりは見受けられない。まだ「肥後半國」の城下町であった。
明後日には、熊本史談会例会で「熊本城内に於ける三の丸の存在」をテーマにして皆さんが楽しまれることだろう。
細川家史料によると、本丸・二の丸・三の丸(三の曲輪)の名称は、時代/\で移ろい定めがない。
この古城地区とてもその取扱いは同様である。
細川時代、居住地の不足から府中の領域は白川の内側に限りなく広がりを見せた。
然しながら坪井川の水運を利用しての物流の拠点はやはり新町・古町を芯として動かなかった。
ただ、巨大な熊本城の完成とともに、古城は重要家臣の巨大な居宅団地と化す。