一昨年は10匹ほどだったメダカが、昨年の増殖で17・8匹になっている。
容器はと言えば、荷物を運ぶときに使うプラスティック容器で深さ約12㎝ほどの水が入っている。
少々人口過多かもしれない。
赤玉土を敷き水道水を入れて一日於いて最初のメダカを入れてから、3年ほどまったく放りっぱなしである。
熊本の水道水はすべて阿蘇の伏流水の湧き水が使われていて、少々消毒はしてあるのだろうが、APの高架水槽から各家庭に届き、浄水器から水を取ると、
水槽の水位が下がるとこれをすぐさま使っている。カルキ除去剤など使ったことがない。
苔が繁茂していてこちらは時々は除去しなければならない。
というのも、過日の朝メダカが死んだように横を向いていた。箸でつまんで取り除こうとしたら、元気に泳ぎ出した。
私は初めて、メダカは藻の中に入り込んでこれに身をゆだねて寝ているということに気付いた。
それから数回同じ状況を見て、メダカが寝床にするのは良いが、泳ぐのに藻が邪魔をしていると思い、藻の掃除を始めた次第だ。
網を張る様に細く長い藻が大量に張り巡らされていて、時々これに頭を突っ込んでもがいている。
エアポンプを入れ、照明もつけているから水中植物の繁茂も勢いがよい。
餌の食い残しを処理してくれる小さな水生動物も動き回っているから、これを殺さぬように水槽を掃除するにはどうしたものかと思案している。
部屋の中に置いているから冬眠ということもなく泳ぎ回っている。今年も繁殖が楽しみである。
左:戸田敏夫著「戦国細川一族-細川忠興と長岡与五郎興秋」
中:高田重孝著「細川興秋の真実-ガラシャの信仰を受け継いだ人々」
右:細川興秋系「天草長岡氏系図」
今年ある方の年賀状が呼び水になって、高田重孝氏の私家版「細川興秋の真実」出版の事を知り、松の内はその入手方を調べるために奔走した。
手にしてみると、20年にも及ぶという高田氏の研究の成果が網羅されており、感慨深いものであった。
それまでの興秋に対する私の認識は、戸田敏夫氏著「戦国細川一族」から踏み出せず、ただ「天草長岡氏系図」を入手するに及んでまたその存在も気になって仕方なかった。
闇の中にあったこれらの疑問は、熊本県立美術館が所蔵する一枚の文書「長岡与五郎宛内記(忠利)書状」により、まことにすっきりと晴れ渡る事になった。
興秋も又、不運な人である。祖父・明智光秀の謀反に伴い、母ガラシャは忠興の命により山深い味土に幽閉されることになる。そんな中天正十一年(1583)与五郎興秋はこの地で生まれた。希望の見えない生誕と言ってもいい当時の情勢であった。その後の母・ガラシャの不幸な死なども乗り越えた興秋であったが、慶長10年(1600)弟・光千代(忠利)に代り父・忠利より江戸證人を命ぜられた。この途中興秋は出奔したのである。
興秋は祖父・幽齋の許に身を置いたのであろう。
そして、興秋付の家老とも言われた、長岡肥後とその父飯河豊前が誅伐されるという忌まわしい事件が起きた。
また、三卿家老の家柄である米田是季は妹が長岡肥後室である事から、この事件に対して大いなる不満を抱えて細川家を退転した。
是季の母は雲仙尼といい、明智光秀の姪だとされるがその父真賀法院は、坂本の西教寺の関係者ではないかと思われる。
是季はその縁を頼りここに身を置いたのであろう。そして興秋と是季は連絡を取り合う間柄であったと考えられる。
大坂の陣の勃発に当たり、興秋も是季も大阪城に入城し西軍として徳川方に抗した。
西軍の敗退後はそれぞれ身を潜めていたが、訴人があって興秋の身にも不穏な情勢が迫ってくる。
父・忠興は興秋に対して自刃を命ずる。徳川家を慮っての事である。
そして、元和元年六月六日、興秋は松井家の菩提寺だとする東林院で自害した。
これが細川家の正史が伝えている処である。
今般の高田氏の長い研究により、興秋は生存しており豊前に密かに入国していた。
米田是季は興秋のために色々奔走していることが判る。切支丹の弾圧が強まると捜索の手も強まり、興秋の身にも危機が迫る恐れがあり、密かに豊前を離れ天草の地に逃れたのである。
其の後の事は細川興秋系「天草長岡氏系図」に精しい。今般この系図の信用性が証明された。
必ずしも幸せな人生ではなかったが、その晩年は穏やかなものであり、天草の人々と共に過ごしたのである。