肥後入国後の興秋の娘鍋にもうれしい出来事があった。娘・伊千が寛永廿年(1643)正月に三卿家老・米田是長に嫁ぎ、翌廿一年(1644)四月女子を平産した。
これが吟である。しかし喜びもつかの間、伊千は吟を残して正保三年(1646)十一月一日に病死した。
元信・鍋夫妻の間に男子がないために、寛永廿年(1643)細川忠利の末子・勝千代(3歳)を養子に迎えていた。
のちに家老職を勤めた長岡元知である。
承応三年(1654)この元知・14歳と吟10歳が縁組することになる。南条家に春が訪れた。
それから15年後、寛文九年(1669)に南条家には二つの災難が起きる。元信の年齢は良くわからないが60歳初頭か、鍋は58歳、養嗣子元知29歳、吟27歳である。
その災難の事件とは、元知の藩主綱利に対する「陽明学徒追放事件」に対する諫言が、綱利の怒りにふれ永蟄居という処分を受ける事件である。
今一つは前回触れた元信のキリシタン容疑とその後の城内竹の丸の質屋(牢)で終生暮らすことになる不思議な事件である。
+----長岡與五郎興秋 米田是長
| ‖-------鍋 ‖----吟
| 氏家元政女● ‖-----+---伊千 ‖
| 南条元信 | ‖
| +=====元知
+----細川忠利 ----+---光尚 ----------------- ↑-------綱利
| ↓
+------------------------元知
今回は元知の不幸な事件を取り上げてみよう。(参考:高野和人著「北嶋雪山の生涯」から)
寛文7年(1667)幕府は将軍代替わりに際し諸国巡見使を遣わしている。
幕府は朱子学を官学としたが、細川家中に於いては陽明学を学ぶ一派があり、巡見使はこのことも確認して報告をしたものと思われる。
寛文九年(1669)十月藩主綱利の帰国と同時に、それら陽明学を学んでいた人々が処分を受けた。御暇になったものは19名に及んだ。
500石・鉄炮15挺頭 小笠原勘介
200石・御小姓 辛川甚太郎
250石 高原左五右衛門
400石・御医師 大庭慶閑
300石 北嶋三立(雪山)
5人扶持20石 竹原武兵衛
2,822石1斗3升・御小姓頭 朝山次郎左衛門
400石 緒方平左衛門
200石 松本三郎四郎
200石 山本藤左衛門
500石 湯浅角兵衛
200石・郡奉行 山形長左衛門
200石・御番方 浅野七左衛門
200石・御小姓 衣笠重左衛門
400石 牧野喜左衛門
250石・鉄炮30挺頭 本庄四郎兵衛
200石 不破兵太夫
500石 金子十郎兵衛
400石・組脇 衣笠兵太夫
250石・歩之小姓頭 奥田勘左衛門
200石 白江八左衛門
500石・鉄炮30挺副頭 西川与助
御物頭 小河彦左衛門
御小姓 朝山伊織
この処分に異を唱えたのが、家老・長岡(南条)元知である。寛大な処分を願っての事であったろう。
綱利としてみれば幕府の意向を得ての処分であったろうと思われる。
綱利は元知に対し、永蟄居の処分をなした。これとて幕府の顔色を伺う綱利の思いが見え隠れする。
元知はこの事により元禄10年(1697)までの28年の長い間許されることはなかった。人生を棒に振ってしまった。
養母・鍋、室・吟の悲しみは如何ばかりであったろうか。
しかしこの年、元知の養父・南条元信の身の上にも大変な事件が勃発した。(次回に続く)