津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■偶然の重なりがもたらした宝暦の改革

2022-02-23 16:41:11 | 歴史

 宝暦の改革は人と人との出会いから始まった。兄宗孝の死により細川家8代当初となった重賢と、用人として仕えた竹原勘十郎と竹原が推薦した堀平太左衛門の三人である。
竹原の先祖をたどると、阿蘇家の対立の中で矢部にあった阿蘇惟豊を亡ぼさんとした惟長・惟前である。惟長・惟前が攻撃を仕掛けたが敗北して薩摩へ逃れた。薩摩に定住した惟前の子・内記惟賢は文学の才能が豊かで墨斎玄与と名乗り「玄与日記」を世に残した。これはちょうどその時期、薩摩に流されていた近衛信尹が許されて帰洛する折、旅のお供をして随伴した折の日記である。
時代が下って細川幽齋が秀吉の命で薩摩に下った折、島津氏に仕えて書記などを勤めた聡明な若い家臣(9歳)をもらい受けて連れ帰った。これが竹原氏の租・市蔵惟成である。
田邊城籠城などでも幽齋の身近に近侍した。忠興の豊前入りにあたってはこれに随伴し、忠利の肥後入りで父祖の地熊本に帰った。
感慨深いものがあったろう。宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門を推挙した竹原勘十郎(玄路)は、この市蔵の六代の孫にあたる。
重賢のドテラを着て炬燵に手を入れ暖を取る有名な圖はこの竹原玄路の作である。
不思議なめぐりあわせが国を捨て薩摩に身を置き、偶然にも幽齋により細川家の臣となり、忠興・忠利の働きにより父祖の地熊本へと凱旋した。誠に数奇と言わざるを得ない。そして宝暦の改革は為されたのである。

(綿考輯録では、竹原市蔵をして隠居名を墨斎玄与としているが、これは時代が異なり明らかな間違いである。)

    市蔵・惟成(庄右衛門・玄可
       
 * (藤孝君)文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、
                            (中略)
          御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日
          連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に
          応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に
          叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候
             市蔵は阿蘇家の庶流にて、宇治の姓也、竹原村に住する故竹原と云し也
             阿蘇六十五代惟種の代に、不足の事有、安芸・上総・紀伊と云三人のもの
             薩摩に来て、島津家に仕へ、大友と合戦のとき、紀伊は討死、安芸ハ高名
             有、九千石を領、其子孫ハ段々知行分り小身にて、一門広く何れも阿蘇何
             某と名乗候、上総も高名して、感状三通有、上総嫡子市蔵惟成と云、幽斎
             君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小姓被召出、知行百石被下、後に庄
             左衛門と改候、三斎君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付候
             能書なるを以、幽斎君御代筆被仰付、書札の事、故実をも御伝へ被成、吸
             松斎へ御相伝の御次并写本も仕り、一色一遊斎へも仕付方の弟子に被仰
             付候、三斎君よりも御口授等被遊、御両君御卒去後も猶稽古不相止、隠居
             名を墨斎玄可と云                   (綿考輯録・巻四)
        * 田辺城籠城 始終御側ニ罷在候故、働無之候                           (綿考輯録・巻五)

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■縄文海進と熊本平野

2022-02-23 07:21:33 | 徒然

 熊本城の北側の花岡山から石神山、それにつらなる京町台地・熊本城地に囲まれた部分は縄文海進により削られて形成されたであろうことは、その地下を探ってみるとよく理解できる。
私の生業は建築の仕事であったから、この周辺の建築に携わった時、いくつかのボーリング調査の結果に触れたことがある。
地表下約40mほどは沖積層である。深層部からは貝殻が出てくる。その間はまったく地耐力がなく、くい打ち工事に多大の予算を費させる厄介な地層であった。
一方いわゆる熊本平野を見てみると、大変興味深いのが貝塚の位置である。水前寺や江津湖周辺まで入り込んでいる。
つまり、かっての熊本城地は海の中にその姿を見せていたことになる。
海の満ち引きはまだ広く海面高く広がっていたであろう大地を長い年月をかけて削り、また、川から土砂が流れ込み、後退していく海面を押し戻すように土地を広げていった。壮大な叙事詩を読む思いがする。
有史時代はそんな叙事詩の中の米粒のような一こまだが、そんな歴史の中で、この地に壮大な熊本のシンボルが建設されたことは、必然中の必然であったように思える。

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