津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠興の羽柴氏時代

2022-02-07 18:18:38 | オークション

                  【模写】細川忠興 書状軸装 某宛 九月廿七日付 

                                     


あて名が良くわからないが、忠興が羽柴を名乗った時代のものである。その始まりは天正十三年で大阪の陣後細川姓に復した。                 

                                                                      さきのかん、きもを
                                                                      つふし申候、され共
                                                                      今日は、とかく/\
                                                                      我等はなり不申候間、
                                                                      さきにかまはす
                                                                      とりをあそはし
                                                                       候へく候。
                                                                      九月廿七日 羽越中守(花押)
                                                                □□□□殿

出品者によって上記のような読み下し文が紹介されているが、「先の簡肝をつぶし候」とあり利休の死か秀次の謀反かと考えた。
どうも日付からするといずれも該当しないように思える。豊臣の歴史の中で九月に起きた肝をつぶすような事件とは何か。
秀吉が正親町天皇から豊臣の姓を賜ったのが天正十四年九月九日。
天正十九年八月には朝鮮出兵を決めたが、これにも肝をつぶしたことであったろう。
九月二十七日という日付の前後の大事件とは・・・?特定できないが、こんな呑気なこともコロナ禍の時間つぶしにはもってこいではある。
答えが出ないのが残念だが。

 

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■歩けば冬でも暑い

2022-02-07 11:32:44 | 徒然

 現役のお勤めの皆さん並に、傘寿爺様の散歩も土日はお休みしている。つまり5日休んで2日休みのスケジュールである。
勢い月曜日は、その休み分を取り戻そうと距離が長くなる。今朝は5㌔程を歩いた。外気温は8度ばかり、これは終日変わりそうにない。
出かける前にベランダに出て、体感気温や風の按配をみて、ネックウォーマーをつけたり、手袋をつけたりして、帽子をかぶりマスク掛けで出発した。

コースの途中では、桜並木の切り倒しが進んでいて、櫛の歯が折れたという形容があてはまる風景が見えてきた。
あちこちで梅が開いているが、待ち遠しい桜の開花も今年は随分とさみしいものになりそうだ。
2/3も歩くと、この寒さでも汗が出てくる。ネックウォーマーをとり、手袋を外し、ダウンのジッパーを開放して温度調整に努めなければならない。
この間約1時間、最近は膝の調子も良く、ましてや今日はふくらはぎの張りも来ずに歩けて、傘寿爺様は大いに満足である。
帰宅してからのコーヒーがうまい。そして1時間ばかりは暖房いらずである。

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■忠興公は猫派?

2022-02-07 06:35:41 | 徒然

 ちょっと探し出せなくているが、護貞さまの御著の中に、忠興公は猫がお好きだったようなことに触れて居られた。
「小倉細川藩」の日帳をご紹介した中で、なんだか猫の記事があったように記憶していたので、ブログ内検索をしてみたら寛永三年の記事に猫ならずとも、
お犬様の記事が連なっていた。

 十一月十日の記録では、「うつくしきからねこ(唐猫)御用候間、当町ニ所持仕もの候ハゝ、可差上由、吉田少左衛門申渡候事」と触れが発せられた。
翌十一日になると猫の世話役が定められる。
三斎様江被進候ねこ之番ニ、御そうち坊主良春・宗也両人ニ申付候也」

そして十三日には、「三斎様へ被進之候ねこ、乃美市郎兵衛持参被仕候処、米田與右衛門ねこ、田町久三郎と申者之ねこ被召上候」とあり、無事に猫が調え
られたことが判る。
此の文面からすると数匹の猫が候補であったのだろう。米田與右衛門と田町久三郎の猫二匹が召し上げられたということであろう。
米田與右衛門とは藤十郎是門550石、米田家2代是政の弟である。田町久三郎については資料をもたない。

 一方お犬さまについても同時期に二つの記事があった。これは土佐(藩?)と、薩摩藩からの贈り物である。狩猟犬でもあろうか?
1,十一月十五日「土佐より参候くろの御犬一匹、門司源兵衛ニ直ニ被成御預候、其ニ付、明日上毛へ御犬ニ仕候ニ被罷越候、其ニ付、犬ノはん米渡候様
  ニと被申候ニ付、則金子(嘉左衛門)ニ申渡、わたさせ申候、但、此方ニハ何共 御意ハ無之候へ共、当分つかへ申候ニ付、右之分ニ申渡候事」
  同・十七日には「門司源兵衛ニ被成御預候前かとよりの赤犬、土佐より参候黒犬、合弐疋共ニ、かい料可相渡旨、土佐新太郎を以被 仰出候事」
  十二月朔日には「(前略)合弐疋分かい料先渡可被申候、重而究次第、永々可被相渡との書付、遣可申候、以上」と奉行二名からの指示書と思わ
  れるものが控られている。
  この記事によると、以前にも土佐犬が送られていたことが判る。時代からすると土佐藩主は山内忠義であろう。
2,寛永三年十二月十日、今度は薩摩の島津家久より犬四匹が贈られた。
 「さつま殿より山路太郎右衛門と申仁、上下八七人ニ而御使者ニ被参候、御犬疋せ被参由候、吉田少右衛門被申来候事」とあり、その日は「御振舞」が
  なされている。一人は馬とあるが、他の人は犬を引いての旅で難儀なことであったろう。四匹の犬も長の道中歩き詰めであったのだろうか?
  そして御使者には「呉服五つ被遣候、又犬疋弐人に銀子壱枚宛」が遣わされ、案内に永良長兵衛がついて、三齋が居る中津へ向かっている。
  使者は十五日猪膝につき、翌十六日歩小姓二名の案内で帰国した。其の後御小人弐人が薩摩へ飛脚、寛永四年二月五日返書を持帰っている。
  こうなると「ペット」を贈る単なる親善外交とは言えない一面が感じられるが如何だろう。

 土佐からと、薩摩から偶然に同時期にやってきたお犬様は、どうやら門司源兵衛の管理する処となったようだ。
 門司源兵衛については豊前時代については侍帳に記載が見えない。肥後御入国宿割帳に「御小姓組衆 百五十石」という記載が見える。 
 

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