このブログを始めたのは2004年の7月24日だから、そろそろ18年を迎える。もっともこれ以前から始めていたのだが、PCのトラブルで記事が消えてしまった。
サイトの開始が2003年8月22日だから、一年くらいの分が消えてなくなっている。
最近過去のブログの当日分を年を追ってチェックを始めた。間違いがそのまま残っているのが恐ろしくて、まさに終活の一環である。
こっそり修正するのは私の意図するところではないから、間違いがあれば朱書きして訂正日を残すことにしている。
懐かしい記事や、全く記憶にない物、改めて追加記事を書きたいと思うもの、いろいろあって面白い。
悪友が「お前のブログは、ボヤキばっかりだな」とよく言うが、いやはや全くその通りである。
あと2年で20年を迎えるから、そこまでは何とか行きたい(生きたい)。
そして、ドメインとレンタルサーバーの代金を10年分くらい一括納入して、こちらは何とか生かし続けようと思っている。
終活とはなかなか厄介なことが多い。
加藤家改易により肥後国を襲封した細川家だが、三齋は加藤家旧臣加藤正方の思いがけない口撃にいささか色をなしている。
加藤正方 ウイキペディアから引用
寛永十年四月二日書状(細川家史料・1079)による(抜粋)と、忠利に対して次のようにぼやいている。
一、爰元之儀、右馬允(加藤正方)色々の事を江戸へ申たる由候、我々右馬允ニ對シ少も能事も悪敷事も不仕候、
百姓むきの儀ハ、其方被申付候間、我々不存候、右馬允ニ不限、我々江戸へ悪敷申遣たる躰と見え申候間、
雨ニぬれて露おそろしからすにて候
この「露に濡れて・・」の言葉は「大難に出あった者は小難を恐れないことをいうたとえ。」
四月廿五日書状(同・1089)によると
一、右馬允出入之儀ニ付、被申度儀候間、彌町奉行ニ承届させ、四五日仲ニそれへ可進由承候へ共、我々か様
ニ成候上、左様之事申あい候儀、迷惑之上之迷惑ニて候、町人と右馬允との公事之事候條、定而御年寄へ
付候而可申候、其時我々へ御尋候共、一言之理りなく如何様ニもしてまけ申度候、左候ヘハ、前かと色々之
事聞候而も、入不申と存候間、可被得其意候、但、きれ替りたるわけ候は、重而可承事
このことについて頭注は「加藤正方八代町人ト出入ス 公事ハ迷惑ナリ 年寄衆ヨリ尋問アラバ如何様ニモシテ負ケタシ」と解説する。
「如何様ニモシテ負ケタシ」とは、どういうことであろうか。
廿六日書状(同・1091)書状においても同様のことを記している。右馬允と八代町人との公事にたいして、いろいろ言われるのは心外だというのであろう。
七月六日書状(同・1126)
一、去春、右馬允内津川勘右衛門・西村安太夫両人より、吉住半右衛門・魚住杢左衛門所へ、右馬允當町へうり
付候米之儀申越候刻、其方爰元へ被参候間、談合申候へは、重而申来候は、如此返事仕候へと被申案文
被仕、半右衛門・杢左衛門迄被渡置候、其上何時も熊本へ申越候へと、我々へ直ニ被申候つる事
一、此儀ニ付、其後當町奉行両人、其方へ差越候へと被申越候へ共、用所多キ時分、其上のひ/\の事候間、
両人不進之候つる事
一、只今江戸より伊豆(松平信綱)添状にて右馬允人を越候由候、則其方へ申候ヘハ、其方ハ不被存事と被申由
候而、志水伯耆所より、如此(志水)次兵衛所へ申越候間、其状之冩進之候、前かと談合之時被申候とハ、事
之外之違にて候、不審ニ存尋申候、様子可承候、それニしたかい重而可申候、恐々謹言
七月七日書状(同・1127)
右馬允八木之出入之儀ニ付、返事見申候、此以前あなたからの使者も不参候時、此方町奉行其方へ差越候へと
被申候つる、あなたより申来時こそ談合も可申ニ、兼而之談合不入儀と迄存候而申候事無念にて候、され共、まけ
て居可申と、于今覺悟申候間気遣なき事候、右のことく我々申候ニ付、今度其方不被存と被申所、一段尤ニ存候
齊藤伊豆(利宗)所へ、我々返事にて済可申候間、其方かまハるましく候、恐々謹言
その後、三齋から忠利に宛てたこの一見に関する書状は見受けられない。「まけてもよい」ということは、右馬允の申し越しを全面的に受け入れて解決したということであろうか。忠利側からの情報も見てみる必要がある。
加藤右馬助はこの後、相場で大もうけをしたとされる。この一件の米が元手となっているのかもしれない。