かっては、豊前街道を出町から京町に進みむと、突き当りに氏家家の大きな屋敷があった。
この道は後には国道3号線となり、熊本城の縁にそって熊本市役所前に通じた。
明治7年、熊本に鎮台が置かれることになり、城内に在った加藤神社が氏家邸跡地に移転することになる。
細川護美の建議に依り明治4年熊本城内、平左衛門丸に造営されたのが始まりである。頬当御門に鳥居が建った。
処が明治10年の西南戦争で被災し焼け落ち、氏家家屋敷跡に再建されるのは明治19年である。以降加藤神社は京町台の旧氏家家の屋敷跡に鎮座していたが、昭和37年に至り、熊本城内の旧櫨方があった現在地に遷宮した。
新堀橋は京町と熊本城地をつなぐ形で古くから薩摩(豊前)街道として存在していたが、明治44年になるとその下にトンネルが掘られ、千反端(藤崎宮前)ー池田(上熊本)をつなぐ、蒸気機動の熊本電気鉄道が開通した。
処で磐根橋・新堀橋がコンクリート造として架橋されたのは大正12年のことである。
トンネルもこわされ両橋の下も、熊本電気鉄道の軌道+一般歩行道として完備した熊本田原坂(鈴麦)線が開通した。
その電気鉄道は昭和29年6月1日に廃止され、替って熊本市電が標準軌道を敷設して10月1日に開通した。約16年間走り昭和45年廃線となり現在の形となった。
旧国道3号線(現・県道四方寄ー熊本線)が、加藤神社の城内遷宮後直線化されたのがいつであったのかの記憶がない。
直ぐ近くに我が家の菩提寺があったため、この辺りは年にニ三度は墓参の為に訪れたものだが、磐根橋から京町筋にまっすぐに大きな道がつながった時には大いにびっくりしたことを良く覚えている。
旧3号線の直線化や広丁から池田(上熊本)に至る県道の整備は、加藤神社の遷宮に大いに関係していることを感じる。
この写真は昭和55年出版の鈴木喬氏編の「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 熊本」にも掲載されている、「平坦道路」が通じた直後の写真らしい(ハガキ)。まだ錦山神社の鳥居が見える。
この写真を見て気が付いたが、新堀橋も磐根橋も待ってくデザインが同じアーチ橋だが、現在の新堀橋(奥)はアーチ橋ではない。いつかけ替えられたのだろうか?
同上写真集にその新堀橋の下のトンネルに軽便鉄道の軌道が写る写真が(右)紹介されている。鮮明でないのが残念・・・