旧暦・新暦の差はあれども、7月17日ともなるとガラシャ夫人の御生害に触れずばなるまい。422年も昔の事だがいつも心に残る。
(慶長五年六月)十七日の暮に及ひ、又催促の使多人数を引具し、玉造の御屋敷をかこミ、使を以て再三御ことハり申せとも、
種々難渋に及はるゝの間、急度御迎を参らせ候、早々御越有へしと荒らかに申シ、内に押入へき様子也、小斎・無世(河北)聞之、
稲留ハ御門に有て暫く敵をあしらひ給へ、我々御自害をすゝめ申さむとて、奥へ参りかくと申上候、本より御覚悟の上なれハ少も
驚き不被成、忠隆君の奥様諸共ニ御自害可有旨にて、御部屋へ人を進られ候に、見へさせられすと申候間、御機嫌あしくいとゝ御
力なく御支度被成候 一ニよし/\と計り被仰候とあり、忠隆君御内室の御事、隣屋敷宇喜多秀家の室ハ御姉なる故、密に末の桐と
申女を以被迎合、加賀の屋敷江立退せ給ひし也
宮仕の女こと/\く御暇被下、落去候様ニ被仰付候得共、相残たるも有之、密に忍ひ出候も有之候、中にも霜・おくと申両人の局
に御遺言被成候ハ、子供之事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさ
る事なから藤(松の丸)を御上へ御直し不被成様ニとの事なり、両人涙を流し、ヶ様の事はかり申候はんには他人に被仰付候へし、
明暮御側を離れす深き御恩を蒙り候身の此時に至りいかて立退候半や、是非御供可仕と申候得は、上様又仰に、我詞に背きてハ死
するとも嬉しと不思、なからゑて最期の体を申さハ、草の陰にても満足たるへしと様々被仰候て、忠興君御子様方江の御形見の品
々御消息被残置、御光様の御乳の人には御光様の御形見を御渡被成候、おく・霜も此上ハせんかたなく御受申上候、扨は心にかゝ
る事なし、少齋介錯仕候得と被仰候、畏候とて長刀をさけ老女を先に立て参りけれハ、御髪を御手つから上へきり/\と巻上させ
給ヘハ、少齋左様にてハ無御座候と申上けれハ、心得たりとて御胸の所を両方江くハつと押ひらき給ふ、少齋敷居をへたてゝ居候
ひしが、御座の間江入候事憚多候得は、今少こなたへ御出被遊候得と申上けれハ、則敷居江ちかき疊に居直らせ給ヘハ、長刀にて
御胸元をつき通し奉り候
少齋も爰にて御供可仕候得とも憚なれハとて表へ立出候、おく・霜は御形見の品々を取持御最期を見届、あやしき下女にさまをか
へ密に忍ひ出る、無世(河北)ハ此間に両人よりの言上を認、家人河北助六 六右衛門子、一ニ今日丹後より御見廻に参りしとあり
山内新左衛門ニ渡し、猶又いさい申上候様ニと云含め関東に差遣す、稲冨伊賀ハ是より先に御屋敷を立退候
偖(サテ)蔀遣戸を御死骸のあたりへとりかけ、御自害の間より奥方の戸まて鉄炮の薬をまきつゝけ火をかけ、少齋・無世一所に
有て、武士も武士によるへし、日本に名を得たる越中守か妻敵の為にとらハれにならんやと声々によはゝり、一同に切腹いたし候
一ニさしちかへて死するとも有 河北か家人河北六右衛門両人を介錯して、其身ハ台所の土間にて腹を切る
金津助次郎、少齋と共に馳廻り御死骸のあたるへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜き
つゝ立、われらハ金津助次郎と云もの也、越中守奥方御生害にて、少齋・石見も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て主の供する様を見よ
と声高に呼り、立腹切て焔の中に飛入りしたりとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり
飛脚の両人は難なく御屋敷を出て弐丁計行延ひ、跡を見るに猛火さかんに見へけれハ、介六ハ新左衛門に向つて、最早石見殿も御
自害と見へたり、主親の最期を見捨て一足も先ヘハ行れすとて、立もとり煙の内にかけ込空くなる、山内は大切の御使なれはと思
ひ夜を日に継て関東江走下り候