津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本城の抜け道

2022-07-14 07:56:57 | 熊本

 昨日の夕方のTKUのニュース番組で「熊本城の抜け道」周辺の崩れた石垣の撤去の模様が放映されていた。
         https://www.fnn.jp/articles/-/388923
「抜け道」だと伝わる二ヶ所のトンネル状の工作物を、過去の映像を流しながらその正体に触れていた。
これはまさしく抜け道だろう。何度もふれている「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」では次のように記されている。
                        
   しょうくんのまのうしろにきみつの間があ    昭君の間の後ろに機密の間が在
   つたこつもおぼへとるかべがめぐる       ったことも覚えている 壁が巡る
   しかけでかべが一ちょうきりつと        仕掛けで壁が一ちょうきりっと
   めぐつとゆかのたかさ六尺ばかり        回ると床の高さ六尺ばかり
     のところからこまかはしごでした        の所から小さい梯子で下

   におりつて女のかみのけでねりあ        に降りて女の髪の毛で練り合
   はせたつなにすがつて下におりそれか      せた綱にすがって下に降りそれか
   らつまる所はふじょう御門から        らつまる所不浄御門(不開門)か
   ずきさかにでるやうになつておつた       豆坂に出る様になって居た 

 小豆坂については■小豆坂と折栴檀橋をご覧いただきたいが、この坂は内坪井方面からの登城口であるが、往時は京町台のがけ下を廻る様に坪井川が流れて居り、緊急時には水運を使っての避難経路であったのだろう。
それは、千葉城の遺跡でも見られたらしいことも■千葉城の抜け穴でふれたが、同様のことであったろう。 

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■加藤氏の宇土城攻めと、その後の小西・加藤家臣と細川家

2022-07-14 06:28:49 | 歴史

 現在加藤清正の宇土城攻めを「清正勲績考」からご紹介しているが、ここに登場する加藤家・小西家の家臣の多くが細川家に仕官している。以前このサイト内に「細川家家臣となった旧加藤家家臣」を設けたが、これも内容を再チェックする必要があるようだ。

    小西勢は行長の弟・隼人や南條元宅堀内氏善島津又助などが加藤勢を迎え撃った。
落城後隼人は一身に攻めを負い、城内の兵は解放され、一部の人たちは清正が半国領主から、54万石の太守になるに及んで家臣として迎えられて、京町の「宇土小路(しゅうじ)」地区に住むことになる。
堀内氏善は加藤家の管理下に入った宇土城の城代となった。その子孫は一族五家が細川家家臣となったが、赤穂浪士の接待役を勤めて知られる堀内傳右衛門もその一人である。
南条元宅の子・元知は細川興秋の女婿である。

    一方加藤勢においては、吉村橘右衛門、和田勝兵衛、芦九大夫重吉(有吉氏)、石田鶴右衛門、前野助兵衛、加藤百助正吉、三宅角左衛門、飯田覺兵衛、日下部與介元五、坂川忠兵衛・伊藤新五左衛門・佐久間角介・井村彦右衛門・田中兵助、長尾安右衛門・出田宮内・赤星太郎助などの名前が見える。
この中に於いては、清正の養嗣子百助の名前が見えるとともに、後に細川家に召し出された吉村橘右衛門・芦九太夫・飯田覚兵衛(息・何右衛門)・日下部與介・佐久間角介・長尾安右衛門(息・伊織)・出田宮内が居る。
特に日下部與介は元・細川家臣であり、加藤家旧家臣の細川家仕官の斡旋者として知られる。

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