津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お津與どの

2022-07-16 15:11:17 | 人物

 先日来、足元の史料を整理していたら、御備頭・田中左兵衛氏朝が、実兄小笠原備前・長衡の夫人「お津よ殿」の召仕の女に「不義の付文」をした事件に関する一文が飛び出してきた。
このことに就いては以前、■親族の不行跡で詳しくご紹介していた。
その折は、「お津よ殿」が何者かわからなかったが、今日はこの資料を読むうちに閃くものがあった。
早速「細川家」の史料をひも解いたら、間違いなかった、細川宜紀の第18子(13女)の「津與」であった。
小笠原長衡は、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎を初代とする「備前家」の6代目である。代々夫人は細川家及びそのご連枝の家から嫁いできておられる。「津與」は細川宗孝・重賢の異腹の妹に当たる。
なんでまた、実兄夫人の召使女に懸想したのか、御津與さま付の医者に頼んで文を届けたりしているので、この医者は150石取から80石取に減知となった。
左兵衛本人は知行(4000石)を召し上げられ蟄居となった。尤も嫡男・典儀(7代)に対して、先祖の訳を以て2,000石を拝領した。
田中家は柳川藩主・田中吉政の弟・氏次を初代とする名家で、2代氏久は天草島原の乱の「実質一番乗り」の働きで有名である。
そんな田中家の名を傷つけた。実兄・小笠原長衡は10日間の差扣である。
そして親族一類が3日から5日の差扣となっている。親族関係をひも解こうと頑張ったがなかなか難儀である。

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■清正の宇土城攻め‐3

2022-07-16 06:23:00 | 史料

          先に「清正の宇土城攻め‐3」を書いていますが、順番を間違えてしまいました。先のものは3-2と変更させていただきます。

「清正勲績考」(巻第二十六)から「清正君捕密使於宇土城外」

清正君ハ其頃宇土城ヲ圍デ稠ク竹束ヲ附テ攻寄給フ所ニ、一夜深更ニ及ビ城内ヨリ一人忍ビ出テ竹束ノ邊ニ來ル者アリ、當番ノ足輕
之ヲ怪ミ組伏テ之ヲ見レバ年四十餘ノ雑人ニシテ勿論無刀ナリ、乃チ搦メ捕テ何者ゾト問ニ、宇土ノ町ノ商人ナルガ不圖城内ニ在シ
ガ忍へカネテ逃來ルトノミ云テ何事ヲ問テモ曽テ知ズト答フ故ニ、本陣ニ引來ルヲ清正君見給ヒ、此ノ者若杖ヲ引テハ來サル乎ト問
給フヲ以テ、之ヲ捕へタル足輕存シ當リ組伏タル時何ヤラン投捨タル様ニ覚タルトテ其所ニ行テ火ヲ點ジテ見レバ、果シテ貴命ノ如
ク竹ノ杖アリシトテ之ヲ取來ル、其ノ杖ヲ破テ見給ヘハ杖ノ中ニ一封ノ書アリ、之ヲ披キ見レハ八代ノ城代小西若狭へ宇土城代小西
隼人方ヨリ遣スノ書ニテ、熊本勢此ノ城ヲ攻圍タルノ間早々日限ヲ極メ其城ヨリ後詰セラレヨ、其ノ時ニ城内ヨリモ突テ出テ前後ヨ
リ挟サンデ寄手を追討ツヘキトノ紙面ナリ、サレバコソトテ清正君斜ナラズ喜ビ其書状ヲ元ノ如ク封ジ、地下人ニ金銀ヲ與へ城中ヨ
リノ飛脚ニ仕タテ八代城へ遣サル、小西若狭之ヲ披閲スルニ宇土城代小西隼人右筆某ガ相調フル手跡ニシテ隼人ガ判形其紛ナカリシ
カバ疑ヒナク之ヲ承知シ、來ル廿八日後詰スヘキ旨ヲ返書ス、彼飛脚之ヲ持参シケレバ弥ヨ之ヲ賞シテ物ヲ賜ヒ、八代ヨリ後詰ノ押
へ勢トシテ森本儀大夫一久・相田六右衛門・奥村數馬與力ノ士十五騎、鉄炮八十挺ヲ差向ラル、宇土ヨリ南三里ニシテ小川駅ニ至リ
宮原町ノ方ヘト赴ク所ニ吉本山ノ南ナル土橋ニ到ル、八代城ヨリ相圖ヲ違ジト九月廿八日ノ未明ヨリ各出軍ス、薩州ヨリノ加勢本郷
能登歩卒三百人ヲ率シ來リ加ル、都合千バカリニテ小川ニ到ラントスルニ、思ノ外ニ熊本人數道上ノ山ニ備テ待カケ散々鉄炮ヲ発シ
ケレバ、八代勢不意ヲ撃レ大ニ驚キ仰天シ鉄炮ヲモ取直サズ乱レ騒グ、相田権六ガ放ッ鉄炮、本郷能登ガ乗タル馬ノ大腹ニ中リ屏風
  タオレ      サカサマ
倒ニ薨ケル故、能登ハ倒ニ落ケルヲ相田権六透サズ走リ寄テ二刀ニシテ之ヲ斬留ルト云トモ敵ノ士卒ハ乱レ散テ之ヲ助ル者モナク、
我先ニト狼狽シ押合ヒ踏合ヒ八代ノ方へ引退ク、後世之ヲ乱橋ノ合戦ト称ス、

  續撰ニ曰、相田権六郎ハ小川の一戦にをそく來り手にあハざるを無念に存じ、八代勢の引退くをしたひて行けるに、武者一騎
   しんがり
  後殿して退行に追つき、きたなくも後を見せ給ふ物哉引返し勝負あれと詞をかけられ、敵取てかへし権六と太刀二ッ三ッして
  押ならべ、馬上にて引組て落けるが権六力やすくれけん、とつて抑へ首を取たる故、比類なき働いたしたるとの御感状を給ひ
  ぬ、右の小川合戦の様子相田権六働ハ本書に記たると大きに相違仕候か、其合戦にあひたる者の物語聞置しハ此如候へ者、何
  レをか是とせんと云々、

八代勢ハ鉄炮少々捨行ニシテ這々逃帰ルニ、熊本勢佐久間角助  ヲ始メ各粉骨シ之ヲ追討テ首數三十九級ヲ獲タリ、時ニ熊本勢
ノ中ニ北川監物ト云者年ナルガ敵味方入乱レ一戦シテ兩方へ引分レケル時、味方ノ挟物ハ何レモ白練ノ切裂一本栗毛ナル故ニ之ヲ
目當ニ二町バカリ行テ見レハ、右ノ挟物シタル武者二・三騎アツテ思ヒ/\ノ挟物ナル故怪シク思ヒヨク/\見レハ皆敵ナリ、偖
ハ見損シ敵ノ中へ紛レ入リケルヨ取包マレ討レンハ犬死ニシテ朽惜カルヘシ、爰ハ心ヲ静メ敵ヲ欺左右ノ者共ニ向テ敵モ引取ルト
見ヘタリ、倡取テ返シ一人ナリトモ討捕ヘシ、各モ返シ給ヘト云テ馬ヲ引返シ一策加へテ馳還ルヲ見送リ、偖ハ敵ニテ在リケルカ
欺カレタル遺恨サヨ、追カケテ討捕ント各馬ヲ返シケル中ニ北川監物ハ虎口ノ難ヲ遁レケル、今度ノ一戦ハ清正君智明ノ徳ヲ以テ
反間ノ謀ヲナシ給フ故ニ森本等ノ勇士各高名セリ、謀ヲ帷幄ノ中ニ廻シ勝コトヲ千里ノ外ニ決スト云ル張子房ガ武徳ニ劣ルマシキ
ト世ニ称美ス、然ル所ニ関東ヨリ飛脚到着シ、去ル十五日関東ニ於テ一戦ヲ遂ラレ、石田方敗軍ニ依テ毛利中納言輝元卿モ降参ア
ルノ由告アリ、(以下略)

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