津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■雨の中の散歩

2022-07-15 10:38:23 | 徒然

               戻り梅雨 ぬれそぼりたる靴を干し  津々

 折り畳み傘を携帯してはいたが、歩き始めたころは雨は降っていなかったが、途中で小雨に替った。
今朝の散歩4.2㌔を歩くのに小一時間かかってしまった。
気温は高くはないが湿度が高く、途中で汗びっしょり、後半は疲れて足がもつれ、喘ぎあえぎの帰宅と相成った。
自分で止めときゃいいのに思うのだが、健康の為にといささかの強迫観念もあってのことだ。
散歩を止めると、足腰のたたない爺になるのが恐い。スタスタとは歩けないまでも、足が動くうちは続けようと思っている。
我ながら「健気だ」と自賛している。シャワーをしてすっきりして外を見ると、今はすっかり上がって空も少し明るくなった感じ・・

           

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■天保十二年五月廿八日、両国川開きの日の災難

2022-07-15 06:34:30 | 人物

 木下韡村先生の江戸での失敗話である。それは両国の川開きの日だった。
両国の川開きは8代将軍・徳川吉宗の時代、享保18年(1733)5月28日に最初に行われた。
当時の大飢饉や疫病流行による死者供養と災厄除去を祈願して行われたという。そして花火が上り、この行事は定例化した。

その事件は天保12年(1841)5月28日に起こった。
岡永嘉右衛門という人物が「離杯仕候ニ付」というから、送別ででもあろうか舟遊びを企て、都合九人が金杉で乗船両国橋まで来た。

                  両国花火を新しいウィンドウで開きます。
 花火が上がるというので見物の船が多く行きかう中、夜六ツ半(午後6時)時分、舟が沈むという事態となった。
慌てて近くの船に乗り移つたが、一人二人の大小の刀などが船と共に沈んでしまった。
永代橋辺りで下船、近くの知人の家により腰の物を拝借する。それから金杉に戻り、船宿でもあろうか「探り方」を依頼した。
それが八つ(午前2時)時分だというから一応花火見物はしたのであろう。

幸いなことに翌29日に刀は、網を以て探り出したという。六月朔日に至っても捜索は続けられ、嘉右衛門の刀が見つからないらしく、某人から借用した。
これらの事が噂となり、藩が各人や船宿を調べるなどしたが、当日捜索の船が数多く出、また船宿は2日の日は商売を休んだという。
韡村先生を始め五名の者が200疋づつ出しあい、嘉右衛門から船宿に届けられたらしい。

これに懲りることなく、連日韡村先生始め暑気払いに相務めている。先生37歳の江戸の夏である。
                          (島善高氏の史料翻刻・木下韡村日記より)

       隅田川 橋マップ

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