建築設計を生業とする私は、歴史の勉強を始めた20年ばかり前から、新町の高麗門が建築様式としての「高麗門」ではない、いわゆる櫓門であることから大いに違和感を感じていた。
そんな中、新町高麗門の由来については貴重な史料が残されていたものを見つけ出した。
県立図書館の某史料にあった者だが、白文で書かれているため内容がよく判らない。
当時の熊本史談会の事務局を預かっておられた中村勝氏が、御存知よりの某氏に依頼されて読み下しがなされた。
■高麗門記 -- 2
これを著した人は中山黙斎(昌禮)で、家老有吉家家臣である。
祇園山から近いため、熊本城下西南の地にこの高麗門を築くのだとしている。西南の役ではまさしく西郷軍は祇園山に砲台を構えて砲弾を撃ち込んだ。
坪井川の流路を替え、井芹川につないだのも戦略的意味合いを大いに感じる。
また、もう一点はヤフオクに出品されていたもの、これは残念ながら入手できなかったが、写真だけは残しておいた。
■高麗門護札ノ事
ここでは高麗門に古い護札があったことが記されている。解体に当たり行方知れずになったようだが残念の極みである。
「高麗門記」に似て非なる文章が残されているが、こちらは解読には至っていない。
■いま一つの「高麗門記」
ここでは「遂取其門材而歸 以為城門 因以高麗稱云」とあり、朝鮮からその材を持ち帰ったから「高麗門」と名付けたとしている。
構造形式から名づけられたものではないことは明白である。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」によると、高麗門は善蔵が関わって完成させている。そして善蔵は清正と共に朝鮮へもわたり、蔚山城の建設にも携わったのではないか。
蔚山城にあった清正軍を含む日本軍約10,000人は、57,000人ともいわれる明朝軍に包囲され、次々に曲輪を落とされながらも本丸に籠り援軍が来るのを待った。多くの死者を出しながらも10日ほどを持ちこたえたが、援軍の急襲を受けて明朝連合軍は戰死者20,000人を出して敗走した。
本丸を守り切った「門」こそが「櫓門」であったらしく、これが持ち帰られたと考えるのが妥当であろう。
熊本城の築城はこの蔚山城に倣うところが多いという。
高麗門の北、熊本城の北西部には蔚山町の地名が残る。加藤氏治世の時代の侍には高麗門やこの蔚山町は、激しい戦闘に闘い勝った想いは胸に疼く矜持となって存在した事であろう。