暑いしコロナは又4,000人台に広がるし、外に出る気に成らない。
昨日はとうとう散歩をさぼってしまった。タイピングをする気力も萎えている。
なにか新しい本でも仕入れないと身が持たないぞと思ったりする。
本棚に目をやると落語家・立川談春のエッセイ「赤メダカ」があったので、何気にとり出して読み始める。
たしか講談社のエッセイ賞を受賞した作品だ。読み始めると面白くてやめられない。
そんな中に師匠・立川談志一門の新年会の話がある。10帖程の座敷に20人ほどが詰め込まれての賑やかさ・・・
宴が進むほどに年始客のカントリー歌手・ジミー時田が歌い始めると水を打ったように静かに聞き入ったが、歌い終わるとその素晴らしさに皆感激の声をあげた。
ところがジミー時田は今一つ、落語「野ざらし」に出てくる端唄「さいさい節」を歌い始めたというのだ。
鐘がボンと鳴りゃサ、上げ潮ォ南サァエ・・・・
談志師匠を差し置いて「三代目柳好は最高だ」とジミー時田、これを聞いて談志一門の新年会は最高潮に盛り上がったらしい。
わたしも暇つぶしにYoutubeで落語でも見るかと思い立ち、「野ざらし」を眺めてみることにした。
「志ん朝」「談志」「小三治」「小遊三」「三代目・柳好」などが見れるようだ。
まくら等を楽しみながら順次聞いてみる。「小遊三」は随分若い頃のもののようで、三人の名人の跡ではなんとも力不足。
最期に三代目・春風亭柳好を聞くが、ジミー時田の絶賛が良く理解できる。「鐘がボンと鳴りゃサ~」など秀逸だ。
ジミー時田は、これをギターを弾きながら披露したというが・・・聞いてみたいものだ。
私たちの若い頃の音楽シーンはジャンルが豊富で、カントリーも熊本にはチャーリー永谷が頑張っていたし何とも面白い時代だった。
ジミー時田は青学出身のイケメンで大いに人気を博していた。
そんなジミー時田は談志一門では賓客扱いされ、「ジミーさん/\」と声を掛ける弟子に、他の弟子が「ジミーさまと言え」と声を掛け大騒ぎとなったと談春が書いている。
うらやましい世界である。
かっては熊本でも、「法泉寺の落語会」や「労音の落語会」等が定期的に行われていたが、もう生での落語会にはとんとご無沙汰である。
好きな人がやってくれば足を運んでみたいという願望は大いにある。冥途の土産にしたいものだ。
史談会の若い友人中村裕樹君は、「平成肥後国誌」の編著者・高田廉一先生の信奉者である。
先生の死後、膨大な資料や遺品の整理をかって出て、ご遺族が必要とされない膨大な資料やネガ、原稿などを受け継ぎ、
自宅に持ち帰って延々整理をしている。
そんな中、「足利道鑑」に関する遺稿が出てきたので、文字おこしをして送ってくれた。
ご自身の「平成肥後国誌」においても、お墓がある子飼の「松雲院」の項に記載あるべきなのだが、見当たらない。
中村君の労に感謝して、文字おこし文をここにご紹介する。
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高田廉一氏遺稿「足利道鑑」
天文二十年(1551)足利十三代将軍義輝は、三好長慶の謀反によって、近江の朽木谷に逃れた。そのと
き、側室小侍従の間に生まれたのが宮千代丸であった。その後、義輝は都に戻るが、永禄8年(1565)5
月19日、三好、松永弾正久通に襲撃され自刃した。二才だった宮千代は近江高島郡日爪城主尾池伊賀守のも
とで育てられたため難を逃れた。一説に、義輝が戮されたとき、元妃烏丸氏方に娠めり。近臣小早川外記、吉
川斎宮が、元妃を奉じて遁れて尾池玄蕃光永の家に匿った。
尾池氏 桓武平姓 横井村古河上今日中屋敷に尾池玄蕃頭は横井城を築いた。玄蕃は平頼盛の胤である。頼
盛の母は平清盛継母で池禅尼と云った。因って世人は頼盛を称して池殿と云った。その五世孫は尾張守に任ぜ
られた。その子孫は尾池を以って氏と■した。細河定禅に従ってここに来て横井、吉光、池内で采地二千貫を
得た。
永禄八年(1565)松永弾正久通、将軍義輝を戮した。時に元妃烏丸氏方に嫁あり。近臣小早川外記、吉川
斎宮は元妃を奉じて遁れ来て、尾池玄蕃(通称嘉兵衛)光永の家に匿った。数日たって義辰を生んだ。遂に尾
池を昌し光永の嗣とした。以後、浅井長政の庇護を受けていたが、天正元年(1573)織田信長が浅井家を
亡ぼしたとき、宮千代丸は長政の子、万福丸かと疑われて、信長の前に引き出された。信長が万福丸と呼んだ
時は何も答えず、宮千代丸と呼んだとき初めて返事をしたので、疑いが晴れたという。それからは徳川家康の
もとに落ち延びた。のち、尾池光永の許に逃れてその養子となった。はじめ足利左近、小池茂右衛門などと称
した。
天正十年11月仙石秀久の家臣上杉伊賀太郎が数百騎を率いて攻撃したが撃退され伊賀太郎は討死した。
義輝の家臣であった尾池帯刀は玄蕃を連れて讃岐に逃れ、のち生駒家に仕えた帯刀は玄蕃を嗣子とした。関
ケ原合戦が終わり、戦国時代も終わりを告げようやく太平の世がおとずれた時成人した玄蕃は、四国、讃岐城
主生駒阿波守に千石をもって招いた。細川忠利は玄蕃を細川家に引き取りたいと思い、江戸城櫓普請の頃松平
阿波守と折衝した。阿波守は「越中様被仰候考其儀にて御座候、玄蕃様と申者、私先祖之主■御子に御座候と
御かたり被成候…」と、末裔の方の古文書にある。松平阿波守正俊と細川越中守忠利 小笠原兵部大輔秀政の
長女は松平阿波守の妻、次女の千代姫は細川越中守忠利の妻となっている。
玄蕃は、私は生駒家にお世話になっているので倅の西山左京を貴藩にお願いいたします。となっているが実
際は、玄蕃及びその一族全員を忠利は受け入れている。
寛延3年(1750)正月付けによる護国寺、常在院、原覚寺、安楽寺、不動院の天台五寺連名による、護
国寺再興について、細川藩へ陳情した古文書が遺されている。その中に、玄蕃は、慈眼大師天海の甥で、忠利
からの招請による肥後国入りの際、東叡山大僧都・元朝法印を慈眼大師の計らいで随行した旨の記述がある。
同僧都は、護国寺住職となっている。
玄蕃は生駒家暇のとき法射乙足利道鑑と改名した。道鑑と長男西山左京は客分扱い、次男尾池伝右衛門、三
男尾池藤左衛門にはそれぞれ千石の知行を与えている。古文書に、苗字を尾池姓としたのは幼少時、尾池伊賀
守に養育を受けていたから旨のことが書かれている。また、西山姓は以前京都西山に居住していたからであろ
う。
足利道鑑は、はじめ御城内平左衛門丸に住んでいたが、光尚の時桜馬場に屋敷を拝領した。
寛永17年(1640)10月23日の奉書に「道道様 宮本武蔵山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ
・薪ニ至まて念を入御賄可被申付之旨 御意ニ候以上
十月廿三日 朝山齊助 在判
御奉行中 」
寛永十八年(1641)正月二日の綿考輯禄に、「道鑑老、西山左京、同勘十郎、同山三郎、新免武蔵(剣術
者也)、源次郎、春日又左衛門(具足師)なとハ奥書院ニて御祝被成候而…」
道鑑は忠利が歿した翌、寛永十九年(1642)七月二十五日没した。法名は、還源院殿華啓道鑑法印幽儀。
墓は子飼商店街にある松雲院に、八代鑑水以外の墓がある。向かって右に義輝遥拝墓、左に護国寺住職東叡山
大禅師元朝法印墓がある。
足利道鑑長男尾池伝右衛門(西山左京至之)は忠利、光貞のとき禄千石。息西山勘十郎は忠利、光貞のとき禄
五百石。のち父子共に御家御断申して京にいった。二人の娘のうち一人は(羽林家)桜井兼友室。もう一人は
小笠原長之後室となっている。
正式に細川家の家臣となったのは、西山八郎兵衛氏房・山三郎からである。知行は千三百石、御番頭を勤め
た。これを初代として、二代九郎兵衛から九代大衛まで、藩主名代で阿蘇宮の是例祈禱の任に当たっている。
二代九郎兵衛・道賀は、小笠原備前長之の二男で禄千三百石着座番頭を勤めた。三代多膳・氏政は、着座番頭
を勤めた。四代大衛・氏政は着座番頭を勤めた。五代多膳は田中左兵衛二男で御番頭中着座御免之着座番頭を
勤め、禄千三百石の外、百五十石。六代 多膳は千三百石。七代九郎兵衛・大衛は千百石。御着座留守居番頭
、番頭を勤めた。八代直次郎は弟で名は義寅、氏寅、八郎兵衛と称した。致仕して後は尾池鑑水と称し、退溟
と号した。禄千百石。文久二年(1862)から慶応三年(1867)まで時習館訓導となっている。訓導仲
間に池辺吉十郎、大里八郎、桜田惣四郎がいた。
明治四年七月十四日付で細川藩は廃藩となった。その後鑑水は魚屋町で尾池塾を開き、子弟に漢学を教えた
。明治二十三年六月六日六十七才で没した。墓は万日山、来迎院裏にある。
正面 退溟隠者墓。東面 、心窮物理淵源。西面、 眼渉充棟書籍。裏面、足利将軍義輝一子玄蕃義辰十一代の孫
源義寅明治二十三年庚寅六月六日没享年六十七、と彫ってある。墓の両脇に、先祖尾池伝右衛門妻女、鑑水妻
女の墓がある。九代、直太郎 実は九郎兵衛子の大衛で、無役千百石。鶴崎番代、小姓頭、御着座、番頭、用
人、奉行を勤めた。廃藩後、魚屋町の養父の尾池塾の経営に参画した。